自己表現は人を<癒す>のか? ―― 「大変な社会」を生きるために 『生きていく絵 アートが人を<癒す>とき』著者・荒井裕樹さんインタビュー 情報 #生きていく絵#新刊インタビュー#造形教室 人は自己表現しながら生きている。それでは、人は自己表現しなければ生きていけないのか? 自己表現は人にとってどれだけの意味があるのか。精神科病院・平川病院のなかで営まれている<造形教室>では、「心の病」を抱えたひとびとが、アートを通じた自己表現によって自らを<癒し>、自らを支えている。『生きていく絵』(亜紀書房)は、文学研究者の荒井裕樹氏が<造形教室>への取材を通じて考えた自己表現の意味や可能性を考えまとめた本だ。自己表現は人を〈癒す〉ことができるのか、そして社会にとってどんな意味があるのか、お話を伺った(聞き手・構成/金子昂) ―― 最初に、『生きていく絵』はどんな本なのかお話ください。 簡単に説明する
ヤンキー、ニューエイジ、ラッセン(そしてアート‥‥) だんだん記憶が蘇ってきたので、トークイベント実況Togetterに拾われてない自分発言を、若干言葉を補いながらメモしておきます。 「歴史修正主義*1と言うと政治の論争になるのだけど、アートはむしろ歴史修正主義のカタマリ。というか、それまでの歴史を誰がどう書き換えそれを「正史」とするかの、闘争の歴史だった。たとえば椹木野衣企画の『日本ゼロ年』展(1999〜2000、水戸芸術館)は「リセット」を謳って、現代アートの村上隆、会田誠など(奈良美智の名を出したけど入ってなかったですね、すみません)から岡本太郎や横尾忠則、そして成田亨でしたっけ‥‥(すかさず速水・斎藤両氏から「特撮の怪獣の‥‥」とフォローあり)まで入れていた。アートからサブカルまで横断的に。でもラッセンはそこから漏れていた」*2 ここから補足。 『日本ゼロ年』展にラッセン(やヒロ・
先日書いた「うちらの世界」と文化の溝という記事のエントリーページを見たら、現代アートの世界なんて「うちらの世界」とどっこいどっこいかそれ以下ですよね、現代アートってあんなバカやこんな愚行が通る世界ですよね!的なコメントがいくつかあってスターが集まっていた。 はて。わざわざそう指摘されるような変なこと‥‥現代アートは「うちらの世界」と無縁とか、バカも愚行もない世界だとか‥‥言ったっけ。 その記事にアート絡みで書いたことは、 ・『三四郎』には、美術についての教養が文化的ステイタスを表すものとして出てくる。 ・それと同じように、当時19歳の地方出身者の自分にとって東京の先端アートの世界は敷居が高く、ついていくのに必死になった。 ・私から見てアートを含む文化系インテリの人々は、自分たちが語る世界こそ他のローカルな世界を含んだ「世界」だと思っているようだった。 ・昭和初期、芸術の世界と大衆との乖離が
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国立新美術館についての先日のエントリ(参考:id:eyck:20070305)に関して、メールにて「国立新美術館は英語表記ではアートミュージアムではなくアートセンターであり、その差を考慮すべきではないか」との指摘を受けた。まず僕は先のエントリでは、国立新美術館がアートミュージアムではなく(コレクションを持たない)アートセンターである点については批判していない(個々の美術館にある既存のコレクションが有機的な連動の結果、意義ある展覧会に結実するなら、それは良いことだと記述もした)。僕が批判したのはまず第一に「20世紀美術探検」展における美術作品の扱い(簡単に言えば展示が雑なのだ)についてであり、そこから感じ取れる、国立新美術館の美術というものに対する姿勢、およびそのような姿勢を招来している、この「美術館」の背景あるいは構造だ。そしてそのような背景が漠然と隠されていることと連動しているかのような
前回、中国の「お金持ちビジネス」の内情を聞いた。今日の中国的「格差社会」は、その成立の背景や内実が日本とは異なっている。それぞれの階層に属する当事者に話を聞いてみないことには全体像がつかめないと思ったからだ。 実際、当事者にはそれぞれの事情があった。成功者の多くは、常に時代の先を見越して抜かりなく次の手を打っていた。それが4年連続国内総生産(GDP)10%成長という伸び盛りの時代を生きる人たちのやり方なのだろう。あちらの社会はこちらと違って、伸びシロやスキ間がいくらでもあると、誰もが信じられる時代なのだから。 それにしても、なぜ中国はこれほど超「格差社会」になってしまったのだろうか。 いろんな理由が考えられるが、ひとつの仮説を立ててみたい。カギは1960年代生まれにあるのではないか。 何も特定の世代や個人を糾弾しようというのではない。「世代」の問題に立ち返ることで、社会が大きく変質した意味
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