聡明の聡ですって言いたくなくて、いつもまず「みみへんに公園の公に心です」みたいな説明を試みちゃう。 そんで相手が、聡明の聡ですねって言ってくるパターン。 自分で自分のことを聡明だとか言うのチョー恥ずかしい。 いや字の説明ってだけだからってのは百も承知だけど。 わりとまともな字でもこんだけ恥ずかしいから、DQNネームの人のそれはレベルの違う恥ずかしさだろうなあ。 あとは美しいの美です、とかってのも。
「努力」に関する記事がいろいろと話題になっています。 がんばった人が報われる社会なんて嫌だ - 意味をあたえる そもそも「報われる」ってなんですか。 例えば、大切な人の誕生日に喜んでほしくて、レストランを予約し、プレゼントを買いに歩き回り、当日は最高のおもてなしをしようと「がんばった」とする。それで大切な人が喜んでくれたら、たぶんその努力は「報われた」ことになると思う。 だけど、喜んでもらえないことだってある。なんたって人のことだから。プレゼントが気に入らなかったのかもしれない、料理がたまたま美味しくなかったかもしれない。たんに体調が悪かっただけなのかもしれない。がんばった人は残念に思う。でもそれは仕方ないことだ。誰が悪いわけでもない。 「報われる」という感情は、とても個人的な感情だと思う。「自分は報われてない」と思う人は、「自分はこんなに頑張っているのにどうして報われないのだろう」と感じ
何事も、「仕事だ」と思ってしまうからなかなか手がつけられない。 「しっかりしたものを仕上げないと」というプレッシャーが、始める気力を削ぐ。結果手をなかなかつけずに、締め切りぎりぎりになって「不本意な」クオリティで提出する。 こんな不合理なことがあってたまるか。 本当は、十分な時間をかけて、納得のいくいい物を作りたいのに。 始める前や始めた直後は、それだけの熱意を持っていたはずなのに。 全部、「初めから完璧にやろう」病のせいだ。 もうやめにしよう。不合理だ。 仕事だとか、きっちり仕上げようとか考えるからこんな沼にはまってしまうんだ。 何でもいいのに、とにかく始めりゃいいのに、うまいことやろうとしちゃうから、「今はコンディションがよくないから」とか何とかっていう理由で手をつけることすら止めてしまうんだ。 ならもう「まともにやろう」とか、「きっちりやろう」とか変に気構えるのを止めよう。 いっその
2007年の3月に、 細野さんと横尾忠則さんのお宅にうかがい、 この夢日記の、さし絵をお願いしました。 そして待つこと4年。 こんにちは、ハリーです。 (ハリー細野じゃなくて、「ほぼ日」のハリーです。 ややこしくてすみません) あれから4年がたちました。 この間、風のたよりに 「まだ動きなし」 「そろそろ描きそうだ」 「いよいよ描くらしい」 「やっぱりやめたらしい」 「なぜか細野さんの顔写真を集めているらしい」 など、さまざまな噂が聞こえてきました。 時間が経つというのは、おそろしいもので、 さいしょはしきりに気をもんでいたのが、 「いつか描いてくれたらいいな」を経て、 やがては「描いてくれら、もうけもの」という境地に至り、 このごろは、そんなことさえすっかり忘れて‥‥。 で、ついこないだのことです。 細野さんのマネージャー 谷本さんから電話がかかってきました。 「横尾さんの絵、とうとうで
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