ここまで、2回の連載で述べてきたことをまとめてみよう。最初の連載で述べたのは、河野談話に至るまでの日本政府の対応には数多くの問題点が存在する、ということだった。日本政府の一連の対応を見る限り、この談話に至るまでの道筋は既に、1992年1月の段階でほぼ決まっており、また、同じ時期に韓国政府もまたそれまでの「慰安婦問題もまた日韓基本条約にて解決済み」と言う姿勢を変更して、何らかの形での補償を求める姿勢へと転じている。その意味において、調査結果が正しかったか否かを離れて、その後の調査は、既に大枠が決定していた解決策へ向けての、「つじつま合わせ」と言われても仕方がない部分を有していた。 そしてだからこそ、その結果として出された河野談話は当初から議論の対象となる運命にあった。この談話が議論の対象とならざるを得なかった理由は、これが最終的に出されたタイミングにもあった。河野談話が出されたのは1993年
日韓間の大きな棘(とげ)である、いわゆる従軍慰安婦問題について、朝日新聞が過去の報道を点検し、一部だが、誤りを認めて取り消した。 韓国・済州島で慰安婦を強制連行したとする吉田清治氏の証言である。吉田氏は戦時中、労務報国会下関支部の動員部長だったとされる。 朝日新聞は1982年9月、「済州島で200人の若い朝鮮人女性を『狩り出した』」とする吉田氏の発言をうのみにして報じた。 ◆世界に誤解広げた一因 これが韓国の反日世論をあおっただけでなく、日本について誤った認識が、世界に広がる根拠の一つとなった。今回、吉田証言を初めて虚偽と判断し、それをめぐる記事をようやく撤回した。 もっと早い段階で訂正されるべきだった。92年には疑問が指摘されながら、20年以上にわたって、放置してきた朝日新聞の責任は極めて重い。 朝日新聞は82年以降、確認できただけで計16回にわたって、吉田氏について記事にした。92年に
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