文化に関するmugio-07のブックマーク (2)

  • 2ちゃねらーはなぜ気持ちが悪いのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    ブログは前近代的合戦、2ちゃんねるは近代戦争 2ちゃねらーはいいたい放題、不作法などネットの荒らくれものというイメージで語られる。しかし2ちゃねらーの気持ち悪さはむしろその逆のところにあるのではないだろうか。2ちゃんねるはコミュニケーションのるつぼである。人類史上これほど不特定多数の人びとでコミュニケーションが行われたことはなかっただろう。このような場はネット上で2ちゃんねるだけとはいわないが、2ちゃんねるがネット上でも特殊な場であることにはかわりがない。 ホームページ、ブログ、パーソナルな掲示板では、参加者は参加者としての連続性をもつことで、ここに自らが表現される。そこでの議論はいわば近代以前の「合戦」である。かつての合戦では、「我こそは〜だ」と戦う前に名を名乗りあい、自らを誇示するとともに、相手が何者であるかをしる。 それに比べると、2ちゃんねるは近代の「戦争」のようだ。無名の人々が相

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  • 「オチ」で考える現代性 - (旧姓)タケルンバ卿日記避難所

    先日の西伊豆合宿に同行したとき、後輩の女の子が何気なくこう言った。 「文学にはオチがない」 「昔の小説とかって難しいよねー」「名作って小学校とか中学校のときに読まされたよねー」という流れで出てきた一言。おお、そう言われるとそうだなあ。確かにそうだ。そういうところあるよ。 と、同時に現代を理解する話であるなあと思った。 オチを求める 小説映画、ドラマにお笑い、そして日常会話に至るまで、最近はオチを求める傾向があるように思うのです。区切りの文化。区切りをつけて次へ行く。そういう段取りが好まれる気がするのです。 逆にオチがないもの、区切りがないものは好まれない。「オチは?」という問いが代表例だけど、オチがないと、それこそ落ち着かない。明確な区切りが欲しい。結末を知りたい。 答えが知りたい そしてそれは答えを求める心理だと思うのですな。答えが欲しい。過程もさることながら、結果を知りたい。話が行き

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