増田こうすけ先生はギャグ漫画家になる段階で賞を取った時代があって最初はバイトだったけどいっぱい漫画を描いたら連続で賞をとって本当は連続っていうのはダメなんだけどそれから20年ギャグ漫画を描き続けてるんだ! 難しい
![ギャグマンガ日和のこの話、「説明が異常に下手な人」の解像度が高すぎて作者が怖くなる](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/81039361fbebde5d9372fc0d5f4bdaeffe592499/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fs.togetter.com%2Fogp2%2F5c7fba74cdaa0dffa8a4154a1e5abfdd-1200x630.png)
※ このnoteは「REKIHAKU 特集:日記が開く歴史のトビラ」(2021年6月刊行)に掲載されたコラムの転載です。 かなを用いて日記を書くことは貫之の発明ではなかった「かな日記」と言えば、古代では紀貫之『土佐日記』が有名である。「をとこ(男)もすなる日記といふものを、をむな(女)もしてみむ、とて、するなり」で始まる創作文学であり、土佐から帰任する国司に随従する女性の立場で記されているが、貫之が土佐守の任を終えて都に戻るのは九三四(承平四)年末から翌年にかけてのことで、それからまもなく執筆されたらしい。ただ、かなを用いて日記を書くことは貫之の発明ではなく、それ以前にかなで日記を記した女性が存在していた。藤原穏子(やすこ)である。 穏子は関白藤原基経の娘として八八五(仁和元)年に生まれた。人康(さねやす)親王の娘を母とする。数え年七歳のときに父基経が亡くなった後、兄の時平は穏子を皇太子敦
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