2018年10月17日のブックマーク (1件)

  • 一首鑑賞 » Archives » くらがりにわがみづからの片手もて星なる時計を腕より外す

    葛原妙子『薔薇窓』(1978年) ※引用は『葛原妙子全歌集』(短歌新聞社:1987年)より ほのか日の差してきて白い田に凹凸のある/髙橋みずほ 前回取り上げた髙橋みずほの歌集の、なかでもこういったとくに短い短歌を読みながら考えたのは、なぜこれらの文は短くても「短歌だ」と思えるのだろう、ということだった。上に挙げた髙橋の歌は、この短さを考えると大胆なことだけど歌集の表題歌である。そして、わたしにはこれはたしかに短歌にみえる。その理由としてわたしが立てたのは、短歌を短歌だと決定する根拠には文のフォルムと内面の二つが関わっているが、必ずしもその二つ両方を同時に満たす必要はないのだ、という仮説である。最低限どちらか片方が短歌的であればいい。 フォルムが短歌的であるというのは、五句三十一音で構成されていること、あるいはそれにできるだけ近い形になっていて、そこからはみ出す場合はなんらかの必然性がみとめ

    myrtus77
    myrtus77 2018/10/17
    内面が短歌的であるというのは…選ばれている表現や描写に対して、これは作者の心の表れだ、という補助線を引いたときに言葉にもっとも筋が通り、言葉がもっとも鮮やかにみえるように感じられる場合、その文は短歌で