⇒武田信玄の「ラブレター」(1〜4) ⇒武田信玄の「ラブレター」(5〜7) ⇒武田信玄の「ラブレター」(8) ⇒武田信玄の「ラブレター」(9〜12) ⇒武田信玄の「ラブレター」(13〜14) ⇒武田信玄の「ラブレター」(追記)
ここまでにわかったこと ・メッケルは参謀旅行で関ケ原に行ってない ・後任のビィルデンブルヒは参謀旅行で関ケ原に行った 参謀旅行とは参謀が現地に行って東軍と西軍に分かれ、地形・兵站等を考慮しながら作戦を立てて争ういわば大規模なウォー・シミュレーションゲーム。 さて、それを踏まえて海音寺潮五郎は『武将列伝 戦国終末篇』の問題の部分 関ヶ原の戦いは負けるべくして負けた戦争だ。明治年代にドイツの有名な戦術家が日本に来て、関ヶ原に遊び、案内の日本陸軍から、両軍各隊の配置・兵数を聞いて、 「これでどうして西軍が負けたのだろう。負けるはずはないのだが」 と不審がったところ、参謀が戦い半ばに小早川秀秋が裏切りしたことを告げると、手を打って、 「そうだろう、そうだろう」と言ったという話がある。ぼくはこのドイツの戦術家の説を信じない。兵数と陣形だけで数学的にことを考える参謀的迷妄だと思っている。小早川秀秋の裏
『児玉源太郎』(宿利重一)によれば、参謀旅行の始めは明治18(1885)だということで、「官報. 1885年11月13日」に 〇陸軍大学校学生参謀旅行ノタメ歩兵大佐岡本兵四郎及同校御雇教師独逸国人メツケル等ハ去ル六日茨城県下総国北相馬郡取手駅ニ著セリ とある。同じく宿利重一の著『日本陸軍史研究メッケル少佐』に藤井茂太の追憶が載せられているが、これは宿利が84歳になった本人から直接聞いたもの。 当時の兵站監の参謀であつた石橋君-健蔵-の云ふには、兵站なるものは糧食を扱ふのである。そこで梅干しでも集めたらば、職責を尽したことになるだらう……で、私共は、聊か梅干しを集めたのである とある。ただし「追憶」だから大げさに言ってるのだろうと思われ。兵站の意味は当然知ってたが、それが勝敗を決する最も重要なものだという認識に欠けていたということだろう。また 「鉄舟ニ依ツテ河川ヲ猶ホ敵前ニ於テ渡過ス」と云ふ
アクセス解析の機能が無いので正確なところはわからないけれども、このブログの中で一番読まれていると思われる記事。 ⇒メッケルが関ヶ原は西軍の勝ちと言ったというのはガセという話について ネット検索して簡単に見つかった情報をまとめて、ちょこっと感想を入れただけの、俺のブログの中では最もお手軽な記事の一つが一番読まれているというのは、何と言いますか… しかし、俺の言いたいことがちゃんと伝わってるかは、かなり不安なので、も一度説明しておく。 ・司馬遼太郎は「メッケル」が「石田方の勝ち」と言った ・海音寺潮五郎は「ドイツの有名な戦術家」が「西軍は負けるはずがない」と言った 「石田方」と「西軍」、「勝ち」と「負けるはずがない」の違いは、仮に元ネタがあったとしても、それを忠実に紹介したものではなく、作家の言い方の違いだろうから特に問題はない。 大きな違いは「メッケル」と「ドイツの有名な戦術家」。海音寺が「
検索しても見つからないんだけど、昔話だったか笑い話だったかで、こんな話を聞いたことがある。 むかしむかし、とある島で規則を破った者は罰として隣の島に島流しするというルールyが作られた。その後、隣の島は人が増えて繁栄し、元の島は寂れてしまった云々。 オリンピックの宣誓は「右手を上げて」宣誓するという規則がある。まっすぐに伸ばしてとは書いてないが、初の宣誓が行われたアントワープオリンピックと次のパリではそうなっている。 ⇒The Olympic Oath 次のアムステルダムではなぜかHarry Dénisの手が曲がってる。前に書いたようにモニュメントはまっすぐ伸ばしてるので個人的事情があるのだろうか? 次のロサンゼルスはまっすぐ。次のベルリンは画像が不鮮明だが当然まっすぐ。動画で確認できる。 ⇒Olympic Sports In Berlin - British Pathé 古代オリンピックは
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