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岩倉具視に関するnakuramayumicomのブックマーク (2)

  • 明治の服制改革 - 座乱読無駄話日記2:楽天ブログ

    2019.06.14 明治の服制改革 カテゴリ:歴史など・・ 明治23年に刊行された水野年方の「開化好男子」という絵があります。 上等官吏、法学博士、豪商紳士、医師、代議士、壮士、若旦那、学校生徒の八人が描かれています。そのうち、4人が洋装ですね。 特に上等官吏は大礼服姿の麗々しい立ち姿。 代議士は後ろ向きながらフロックコートの典型的な紳士。 髪型がやや自由すぎますが法学博士は多分洋行帰りなんでしょうね。学校生徒は・・・帽子とカバン以外は、今でもある(減りつつありますが)詰襟の学生服。 医者はこの絵では和装ですが、洋装の医者も描かれています。 こういった、男性の半分が洋服を着ていた?という分明開化の時代ですが、日人・・とくに新政府の役人に洋服を着せるまでにはとてつもない苦労があった。 そういったことについて、こういったがあります。 「洋服・斬髪・脱刀ー服制の明治維新」(刑部芳則・講

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  • 致遠館と弘道館~岩倉具視が息子を託した佐賀の藩校

    岩倉具視(左)と鍋島直正(右) 国立国会図書館蔵 致遠館の英学と弘道館の漢学 慶応4年(1868)正月、岩倉具視の二男・具定は東山道鎮撫総督に、三男・具経は同副総督に任じられ、戊辰戦争を戦った。 江戸開城が成ると、同年5月に、それぞれ、奥羽征討白河口総督と同副総督に任じられる。 ところが、翌6月、2人は学齢期にあるとして呼び戻された。そして、佐賀藩に派遣される。岩倉具視が、佐賀藩の教育が日一だと認識していたからだ。 岩倉具視が鍋島閑叟(直正)に、子供たちを佐賀藩の藩校で学ばせたいと伝えたのに対して、閑叟は、「田舎侍の同宿する粗野な荒破屋(あばらや)に京洛の貴紳が従学されるとは、甚だ恐縮に存じます」と断わりの書簡を送っている。 しかし、その時にはすでに、具定と具経は佐賀へと向かっていた。やむなく閑叟は、長崎に設立した英学を学ぶ藩校・致遠館へ2人を送り、フルベッキに学ばせることにした。 岩倉

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