宮城・岩手の5世紀の主要古墳分布(古墳文化の北限ライン) 6世紀後半のヤマト王権と蝦夷の境界(古墳文化の北限ライン) 5世紀~7世紀初頭の天皇系図 【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】 第2部 太平洋と北上川が育んだ文化と交流 <ヤマト王権の勢力外に> ■半島と緊張続く 4世紀後半に朝鮮半島の高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)、伽耶(かや)諸国の緊張状態に関わってヤマト王権は半島に派兵したりしましたが、中国との関係は西晋の266年の邪馬台国(やまたいこく)の使節派遣記事を最後にしばらく途絶えていました。 中国の史書に再び登場するのは、古墳時代中期になってからです。420年に中国南朝に宋が建国し、421年から479年まで讃、珍、済、興、武の5人の倭王が11回も使者を送ったことが「宋書」夷蛮伝(いばんでん)、本紀(ほんぎ)、「南斉書」夷蛮伝に記されています。当時の朝鮮半島の高