【解説】多賀城碑は古代東北の政治・文化の中心だった多賀城が今年創建1300年を迎えることを示す唯一の史料だ。国宝への昇格は「これ以上ない吉事」(市関係者)であり、さまざまな記念事業が展開される節目の年に花を添える以上の深い意義を持つ。 市は今年1年間、創作オペラや映画祭、記念式典など多彩な文化芸術…
0歳で神経芽細胞腫と診断された米国の少女は4歳になり、自分や同じ病気の友達を助けたいと、自宅の庭にテーブルを並べ、家族と手作りのレモネードを売り始めた。報道で共感を呼び、少女は2004年に8歳で亡くなるまで約70万ドルを集め、小児がん研究のために寄付した。「レモネードスタンド」と呼ばれる小児がん支…
盗まれて行方不明になっていた宮城県加美町中新田地区の伝統芸能「火伏せの虎舞」の虎頭(とらがしら)が約40年ぶりに保存会の元に戻った。東日本大震災後の郷土芸能復興に携わる笹山政幸さん(55)=釜石市=が所有者不明の虎頭を入手、8年にわたって持ち主を探し続けた努力が帰還に結びついた。 「これに間違いな…
東北石神様百選 山田政博 編著 信仰の対象となっている岩石がある東北6県の100カ所を紹介した写真・コラム集。白石市在住で採石業の4代目が引退後、各地を巡り執筆した。 取り上げたのは、日本3大霊場・恐山と深い関わりを持つ仏ケ浦(青森県佐井村)や、国内最大級のストーンサークルがある大湯環状列石(鹿角市
【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】 第2部 太平洋と北上川が育んだ文化と交流 <南北文化合流の結節点> 「発掘!古代いしのまき第2部 太平洋と北上川が育んだ文化と交流」では石巻地方の地形の成り立ちから古墳時代までの石巻についてお話ししてきました。 石巻地方は縄文時代前期には半島部や丘陵端部に集落を作って住み始め、集落が安定すると史跡沼津貝塚や里浜貝塚、南境貝塚、平田原貝塚、川下り響貝塚、朝日貝塚、出島貝塚、照源寺貝塚に代表される貝塚の宝庫となります。 ■遠地とつながり 貝塚には縄文時代の狩猟、漁労、服飾、信仰から食生活に至るまでさまざまな情報が内蔵されています。それらを調べると石巻地方の縄文時代人が遠隔地の広い範囲の人々とつながりを持ちながら豊かな生活をしていたことが分かりました。 縄文時代後期ごろから北上川とその支流によって運ばれた土砂が石巻海岸平野を形成し、晩期には現在とほぼ変わら
五松山洞窟遺跡の交流模式図(筆者作成) 五松山洞窟遺跡の位置(左)。右は洞窟内部の測量図(石巻市文化財調査報告書第3集「五松山洞窟遺跡」より) 五松山洞窟遺跡の出土遺物1(石巻市文化財調査報告書第3集「五松山洞窟遺跡」より) 五松山洞窟遺跡の出土遺物2(石巻市教委、石巻市博物館提供) 【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】 第2部 太平洋と北上川が育んだ文化と交流 <埋葬の謎 王権の政策か> 推古天皇と聖徳太子が活躍した6世紀末~7世紀初め、石巻地方では再び集落がつくられ始めます。その頃のお墓の遺跡に五松山洞窟(ごしょうざんどうくつ)遺跡があります。この遺跡は一般的な後期~終末期古墳と違って海蝕(かいしょく)洞窟を利用したお墓の遺跡なのですが、その内容は驚くべきものでした。 ■19体以上が出土 五松山洞窟遺跡は石巻市湊字町裏山にあり、旧北上川河口東岸の牧山の粘板岩(ねんばんがん)丘陵裾(す
【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】 第2部 太平洋と北上川が育んだ文化と交流 <国交を求め遣隋使派遣> 古墳時代後期の6世紀に宮城県北部一帯に集落が見えなくなり、再び集落が出現し始めるのは6世紀末頃になってからです。古墳時代後期の空白は、ヤマト王権との関係が途切れてしまう原因となりました。王権の勢力範囲外となった阿武隈川以北の仙台平野、大崎・石巻平野に居住する人々は、蝦夷(えみし)と呼ばれる異民族として扱われるようになりました。 ■最初の女性天皇 再び集落が出現する6世紀末~7世紀前半は、ヤマト王権で最初の女性天皇となった推古(すいこ)天皇と天皇を補佐した厩戸皇子(うまやどのおうじ)(聖徳太子)の時代です。飛鳥(あすか)盆地に天皇がいて政治の中心地となったことから、この時代を「飛鳥時代」と呼びます。また、古墳が造られた最後の時期でもあるので「古墳時代終末期」とも呼ばれます。飛鳥時代の石
石巻地方の7世紀前半の遺跡 石巻市桃生町角山遺跡の発掘調査現場(左上)、出土した土器(左下)、発見された遺構図(右)=東北歴史博物館提供= 東松島市赤井遺跡出土の7世紀前半の関東系土師器実測図(左)と土器(東松島市文化財調査報告書第18集『赤井遺跡発掘調査総括報告書』より) 【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】 第2部 太平洋と北上川が育んだ文化と交流 <集落再出現、関東と交流> 仙台平野以北の太平洋側では、6世紀前半に集落が見えなくなって、再び出現し始めるのは飛鳥の都で推古天皇と聖徳太子が登場する6世紀末頃になってからです。仙台平野では多賀城市市川橋(いちかわばし)・山王(さんのう)遺跡、仙台市南小泉遺跡、長町駅東遺跡、栗遺跡、下飯田遺跡、名取市清水遺跡など遺跡数が増加しますが、大崎・石巻海岸平野では石巻市桃生の角山(かどやま)遺跡、東松島市の赤井遺跡、栗原市泉谷館(いずみやたて)跡、
宮城・岩手の5世紀の主要古墳分布(古墳文化の北限ライン) 6世紀後半のヤマト王権と蝦夷の境界(古墳文化の北限ライン) 5世紀~7世紀初頭の天皇系図 【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】 第2部 太平洋と北上川が育んだ文化と交流 <ヤマト王権の勢力外に> ■半島と緊張続く 4世紀後半に朝鮮半島の高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)、伽耶(かや)諸国の緊張状態に関わってヤマト王権は半島に派兵したりしましたが、中国との関係は西晋の266年の邪馬台国(やまたいこく)の使節派遣記事を最後にしばらく途絶えていました。 中国の史書に再び登場するのは、古墳時代中期になってからです。420年に中国南朝に宋が建国し、421年から479年まで讃、珍、済、興、武の5人の倭王が11回も使者を送ったことが「宋書」夷蛮伝(いばんでん)、本紀(ほんぎ)、「南斉書」夷蛮伝に記されています。当時の朝鮮半島の高
仙台の中心街で50年以上にわたり、働く人たちのおなかを満たしてきた立ち食いそばの店がある。「そばの神田」。その名から全国チェーンと思い込んでいる人も少なくないが、れっきとした地元資本。10月8日の「そばの日」を前に「うまい、早い、安い」の秘密に迫った。(編集局コンテンツセンター・佐藤理史) 学生向けの「立ち食い」店 「いらっしゃいませ」「そばですか? うどんですか?」。威勢よい声が迎える。 9月末の平日午後2時、青葉区中央3丁目の駅前南町通り店を訪ねた。約45平方メートルの店内で、10人前後がそばをすすっていた。ピークは午前11時~午後1時半の昼飯時。多い店は1時間に150食を売り上げる。 かんだ商事(青葉区、従業員約60人)が仙台市中心部に立ち食いスタイルの「東一屋」5店、仙台市若林区と多賀城市にあるロードサイド店「町前屋」2店を展開する。7店で1日平均約4000食、年間150万食を売る
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