鉱山・鉱石研究者/五十公野裕也さん 宮城・山形県境の奥羽山脈には栗駒山、鳴子、蔵王山といった活火山が存在する。これらの山々には火山活動に伴って形成された硫黄鉱床が分布し、かつては盛んに硫黄が採掘されていた。 県内の硫黄鉱山は10カ所ほど存在したが、今では全ての鉱山が廃止されている。この中で、最大規模…
「仙台育英高が優勝した場合、1面の担当をお願いしたい」。夏の高校野球大会準決勝の前日、上司からメールが届いた。正直なところ、乗り気ではなかった。 自分が過去整理部に在籍中、東北の高校の決勝進出は3回あった。このうち2回は1面の担当で、もう1回は2015年、仙台育英高が優勝した場合に発行する号外の担…
須江糠塚遺跡と関ノ入遺跡の位置 須江丘陵の地形図 須江糠塚遺跡発掘調査遺構配置図(「須江糠塚遺跡」河南町文化財調査報告書第1集より) 須江糠塚遺跡から発見された住居と出土遺物(「須江糠塚遺跡」河南町文化財調査報告書第1集より) 【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】 第2部 太平洋と北上川が育んだ文化と交流 <海辺から丘陵に移動か> 石巻地方に最初に移住してきた古墳時代人は沖積地の平野部に新金沼遺跡、田道町遺跡、赤井遺跡のムラを作りましたが、集落は長期間は営まれず、程なくいなくなってしまいます。その後の集落は丘陵部で見つかっています。須江丘陵北端の須江糠塚(ぬかづか)遺跡や南部の関ノ入遺跡です。 ■中学敷地に集落 須江糠塚遺跡は石巻市須江糠塚に所在し、JR佳景山(かけやま)駅の約300メートル南に位置します。現在の河南東中の敷地に当たります。1986年、旧河南町の懸案だった中学校統合問題も
仙台藩を揺るがした伊達騒動(寛文事件)で唯一生き残った奉行の古内志摩(1631~73年)を顕彰する活動が近年、志摩の墓がある仙台市内の寺で続いている。取りつぶしは免れたものの混乱する藩内の安定に奮闘した割に、志摩の知名度は高くない。子孫ら地元関係者は隠れた偉業が広まることを願う。 藩内の安定に奮闘 …
一時代を築いたスケーターが、大きな決断を下した。 フィギュアスケート男子の羽生結弦選手(27)=ANA、宮城・東北高出=がきのう、第一線を退く意向を表明した。今後はプロとしてアイスショーを中心に活動する。 本人にとっては新たなステージへの一歩で、スケートを通じて、その魅力を伝えていくことに変わりは…
記者なのだから政治家の発言を素直に信じるな、と読者に怒られるかもしれない。とはいえ、せめて公式の記者会見は誠実に応じてほしいと思っている。5日にあった郡和子仙台市長の定例会見での対応は、やっぱりふに落ちない。 参院選で候補者を応援するかどうか問うと「具体的な要請はない」と明言。わずか5時間後、市役…
毒が変えた天平時代 船山信次 著 仙台市在住の日本薬史学会副会長(薬学博士)が奈良時代、特に天平期の権力闘争と毒の関係について考察した一冊である。「遣唐使を介して当時の先進国から薬物がもたらされ、毒を使用した暗殺と思われる事例も認められる」とし、737年に相次いで亡くなった時の権力者藤原武智麻呂、房…
【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】 第1部 石巻地方を考古する <平城宮遷都前の可能性> 古墳時代の中頃から石巻地方はヤマト王権と関係が築けず、異民族の蝦夷(えみし)として扱われます。それでは、いつから石巻地方は日本の国の範囲に入ったのでしょうか? 中国大陸では581年に隋が興り、ヤマト王権では飛鳥にいた推古天皇が遣隋使を派遣します。『日本書紀』では607年の小野妹子を正使とする派遣が最初ですが、『隋書』では600年に倭から朝貢に来た記録があります。600年の使者は隋の皇帝と謁見し倭の政治のあり方の不備を諭されます。倭の使者は律令制度を備えた進んだ文化を目の当たりにして驚愕(きょうがく)して帰ったに違いありません。大陸の進んだ法制度、官僚機構、人民支配、学問、宗教を学ぶため、618年に唐が統一した後もヤマト王権は遣唐使を送り続けます。 ■国づくり、大化改新が契機に 隋や唐の強大な帝国は
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く