松重美人さんが1945年8月6日午前11時過ぎに撮影した御幸橋西詰めの惨状(中国新聞社所有、日本写真保存センター所蔵) 米軍による広島、長崎への原爆投下から今年で77年。核兵器の非人道性を証言してきた被爆者が高齢化し減少する中、その惨禍を記録した写真の役割は増している。撮影者の「あの日」の体験や、写された街や人の被害をたどり、その意味を見つめ直す。 【松重さんが被爆当日を撮った5枚だけの写真】 原爆投下後の街や市民の被害状況を日本側のカメラマンたちが写した「原爆写真」は、米軍撮影の写真でよく知られている巨大なきのこ雲の下で何が起きていたのかを私たちに伝える。中国新聞の調べでは、米軍が広島市に原爆を投下した1945年8月6日から同年末までに撮られた広島の原爆写真は、計2700枚以上確認されている。 そのうち、未曽有の混乱の中にあった6日当日に市民の惨状を捉えた写真は5枚だけだ。いずれも元中国