おれのじいさんは大正10年7月に足利に生まれて旧制足利から京都に進み、そこで学徒出陣を迎えた。戦後は払い下げ地に入植し、相前後して知り合ったばあさんと結婚し、養鶏と造園と果樹園で生計を立てた。けっこうなインテリで実際、頭も切れたので、戦後ほどなく頭角を現した。組合長になり、養鶏の成功は大臣表彰を受け、アメリカ行きの切符をもらったとも聞く。市政に出る話も持ち上がっていた。郡村から市に編入されたのが昭和29年。昭和30年代の話である。 けれどじいさんはそれらの上昇的なふるまいを自らに許さなかった。かえって戒めとした節がある。ばあさんにも、戦後の女性の地位向上の流れの中で、政治に関わってみてはという声が挙がっていた。高等尋常小学校卒で、聡明だったが昭和不況(1929-)のあおりを受けて学業は妹たちに譲った。妹たちは戦後、県や市の教育界の要職を務めた。 職業軍人、職業政治家、職業教育者(教師)には