子供を育てる時、はじめのうちは親が子供の前に立ち、手取り足取り教えてあげたり、行き先を決めてあげたりするものなのだろう。しかし、ある時点に来たら、親は子供の後ろに立ち、「大丈夫だよ、ここで見ていてあげるから、やってごらん」と言う必要がある。これは子育てに限らず、教育とは全てそういうものなのかもしれない。 しかし、私の母は後ろに回るということがなかった。不安感が強く、安心と安定を求めた母は、判断を子供に任せたら、子供が最悪の失敗をしてしまうと考えるような人だった。なので母は、終始私の前に立ち続け、誘導という支配をした。皮肉にも母は、その結果として、自ら最悪の失敗を招いてしまった。 子供が失敗することを恐れて、事前にあれこれと手を回すのは、優しいようで優しくない。それは子供に対して、「失敗したら終わり。失敗したら終わり」と言っているようなものだからだ。というよりも、そもそも親自身がそう思い込ん
「競争を拒む」若者の心理と意外な孤独感:日経ビジネスオンライン そりゃ「競争しろ競争しろ」とだけ言われても、やる気になるわけがない。これは、親から「勉強しろ勉強しろ」とだけ言われるのと同じだ。親から「勉強しろ勉強しろ」と駆り立てられてした勉強が、はたして自分の血肉になるのだろうか。何か、肝心の部分が成長していないような、早く成長したわりには中身が空っぽの竹のような、そのような結果にしかならないような気がする。 「競争しろ競争しろ」と駆り立てられると、ひねくれ者の私は、「あなたたちから見て、熱心そうに見えれば満足なんですか?それがお望みなら、私、熱心なふりだけしますけど」と思ってしまう(笑)。「競争しろ競争しろ」と言うのは、精神論根性論だ。精神論は「見かけ」を重視する。実際に熱心かどうかではなく、上司や監督などから見て、熱心に見えるかどうかが大事なのだ。 実際、日本の「カイシャ」は、仕事をし
コミックナタリー PowerPush -オノ・ナツメ「ACCA13区監察課」×押切蓮介「ハイスコアガール」 ジャンル違いの2人がキャラ交換!オノ風「ハイスコア」と押切風「ACCA」の作画風景を動画でお届け オノ・ナツメ「ACCA13区監察課」1巻が11月25日に、押切蓮介「ハイスコアガール」5巻が12月25日に発売される。ともに月刊ビッグガンガン(スクウェア・エニックス)にて連載されている作品の同時期刊行を記念し、コミックナタリーでは2人にお互いのキャラクターを交換してイラストを描いてもらうという企画を実施した。 特集ではオノが「ハイスコアガール」の、押切が「ACCA13区監察課」のキャラクターを描く模様を動画でお届け。完成したイラストは壁紙としてプレゼントする。デジタルとアナログ、異なる作画方法で生み出されるキャラクターをご覧あれ。 取材・文/坂本恵
大友克洋の初期短編「武器よさらば」が、2014年3月20日に資料などを含めて復刊される。同作を所収する短編集「彼女の想いで…」は、入手困難な状況が続いていた1冊だ。 コミックナタリーではこの復刊を記念し、大友にインタビューを敢行。「武器よさらば」のことから、同作のアニメや大友が監督を手がけた「火要鎮」を含むオムニバス映画「SHORT PEACE(ショート・ピース)」、さらには「AKIRA」前史を振り返る貴重なエピソードまで、たっぷり1万字でお届けする。 取材・文/斎藤宣彦 撮影/坂本恵 だんだん自分の作品が大作化していってたんで ──この秋の叙勲での紫綬褒章、おめでとうございます。 ありがとうございます。 ──今日は、オムニバス映画「SHORT PEACE」と、その一編でありマンガ版が単体で書籍となる「武器よさらば」についてお聞きします。「SHORT PEACE」では、4作品をオムニバス的
『愛国心と赤ちゃん願望』でも述べたが、人は「誰からも愛されたい。誰からも受け入れられたい。誰からも特別扱いされたい。誰からも否定されたくない。誰もが自分の望み通りに動いて欲しい。」という願望(幼児的万能感)を、多かれ少なかれ誰でも持っている。食欲・睡眠欲・排泄欲が身体の根源的な欲求とするならば、この願望は精神の根源的な欲求だろう。 この願望は、例えて言うなら自分の心の中の赤ちゃんだ。心という家の中に、大人の自分(理性)と赤ちゃんの自分(感情)が一緒に住んでいるようなものだ。 精神的に自立するということはつまり、自分の心の赤ちゃんのお守りを自分でできるようになるということだ。赤ちゃんの話をよく聞いてやり、落ち込んでいたら抱き締めて慰めてやり、怒りを抱いていたら適切に発散できるよう取り計らう。 たまには、誰かに慰めてもらったり励ましてもらったりと、赤ちゃんの世話を他人に手伝ってもらうこともある
相手のための気遣いと、自分が嫌われないための気遣い 自分が嫌われないために気を遣う人は、身内を潰す。 群がる「親」という名の感謝乞食たち 自分が嫌われたくない人の気遣いは、「いじめ防衛的気遣い」 困った親の言う「私を理解して」は、「私を良い親だと思って」 一連のエントリを書いてきた中で、色々なことを言われたが、その過程で思ったのは、なぜ、私と似たような家庭に育ったわけでもなく、私の家庭のようなことについて詳しいわけでもないのに、私に対してアドバイスなり説教なりができると思うのか、ということだ。 これは、いじめられている子供に対して、何も知らない大人が、「ニコニコして、自分から話しかけて、仲間に入れてもらいなさい」「皆がやってることに興味を持って、皆の輪の中に入れてもらいなさい」などと、的外れなアドバイスをするのに似ているのかもしれない。 いじめられた経験がなく、いじめについて勉強したことも
いじめの構造の中でよく見られることの一つに、直接明確な悪意を持っていじめて来る人間の他に、「私はあなたの味方よ」というポーズを取ってやって来るいじめっ子がいる。こういうタイプは明確で直接的ないじめっ子よりタチが悪い。本人はあくまでも善意のつもりで、自分の迷惑性を欠片も疑わず、迷惑性を指摘すると途端に逆ギレして手の平を返し、罵倒する側に回るからだ。 味方を装ったいじめっ子は、初期段階では、直接いじめるでもなく、いじめを止めようとするでもない、「その他大勢」であることが多い。一見いじめられている人間に友好的に振舞うが、本人の前では友好的に振舞っておいて、陰で噂を広めたりする。本人から情報を聞き出し、聞き出した情報を噂仲間に広めて「情報通」ぶることが目的だ。 噂を広める人は、他人をいじめられる状況に追い込むだけ追い込んでおいて、いじめに遭っているその瞬間に助けるようなことは絶対にしない。それで「
自己犠牲的精神の持ち主は、助けてあげると言いつつ、なぜか重くのしかかってくる。 例えば、もし自分の親が自己犠牲的精神の持ち主で、「あなたのことは、私が全部背負ってあげる」「私さえ我慢すれば、それで良いの」と言いながら、ボロボロになっていたら、その親を見る子供の気持ちはどうだろうか。 子供は「親は自分のせいでこうなっている」と、親に対して罪悪感を抱き、「自分で背負えるものは自分で背負いたいのに」と、自分の気持ちが無視されているように感じ、親の「優しさ」に重さを感じるだろう。 相手の気持ちを無視し、罪悪感を抱かせ、そして重い。これは「困った親」に共通した特徴だ。助けるはずの相手にのしかかって押さえつけている。 自分には限界がある。自分には、自分にできる範囲のことしかできない。自分以上のものになろうとするから色々とおかしくなる。子供を虐待する親も、自分以上の「良い親」になろうとして、自分の理想像
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