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人生と戦争に関するnicoyouのブックマーク (6)

  • 「死んだ真似で生き残った」――沖縄の集団自決、生存者が語る75年前の悲劇 - Yahoo!ニュース

    太平洋戦争では、日で唯一の地上戦が沖縄で繰り広げられた。米軍が上陸した際、沖縄島や慶良間諸島では集団自決が行われた。最も自決した人が多かった渡嘉敷島では、村長の号令のもと329人が命を落とした。ただし、手榴弾の不発などによって一命を取り留めた人もいる。あの集団自決の現場では何が起き、どのように生き抜いたのか。75年前を振り返ってもらった。(文・写真:写真家・亀山亮/Yahoo!ニュース 特集編集部) 5月1日から68日間、新型コロナウイルスの新規感染者数ゼロが続いた沖縄。だが、7月に入ると、在日米軍基地を含む県内で感染者が急激に増加。さらなる感染拡大への恐れと自粛の空気が強まりつつある。例年であれば夏休みの観光客で賑わう那覇市内の国際通りも、人通りが減っている。 今年はそんなコロナ禍の影響で、生まれ故郷の島へ帰れなかった人がいた。 「(3月28日の渡嘉敷島の)慰霊祭、毎年行ってたけど、

    「死んだ真似で生き残った」――沖縄の集団自決、生存者が語る75年前の悲劇 - Yahoo!ニュース
  • 第二次世界大戦で兵隊に行った親族がいたら三親等以内なら軍歴を知ることができる→「いま請求しなければ永遠にわからないかもしれない」「ぜひ請求したい」

    もにょもにょ @monyomonyo5 三親等以内の親族の軍歴の取り方お伝えします! もし身内に第二次大戦時に兵隊に行っていた方がいるようでしたら、 どんな部隊に配属されて、 給料いくらだったかとかわかるので、 オススメです! 続く) pic.twitter.com/tty1LuD1iB 2019-01-28 01:50:42 もにょもにょ @monyomonyo5 まずは心構えを。 ・とにかく人に聞こう! 兵籍簿取り慣れている人はあまりいらっしゃらないと思います。 わからない事ありましたら、 親族とか役所とかに聞きまくりましょう。 ・気長にやろう! 基電話や封書でのやり取りになります。 気長に構えましょう! 続く) pic.twitter.com/UzFPXL7GT3 2019-01-28 01:56:03

    第二次世界大戦で兵隊に行った親族がいたら三親等以内なら軍歴を知ることができる→「いま請求しなければ永遠にわからないかもしれない」「ぜひ請求したい」
  • 小林亜星 86歳が語る「ざまあみろ」って思った終戦 13歳の夏 | 文春オンライン

    ◆ 戦時中っていえば、ジャズが禁止されてたってことかな 小林 この8月11日で86になりました。やんなっちゃいますよ。後期を超えて「末期高齢者」だって言ってるの(笑)。 ――今日は小林さん自身と「寺内貫太郎」の戦争体験、戦後をお伺いしたいと思っています。 小林 あのドラマをやったのは、僕が41歳のときでしたね。昭和49年か。相当前ですね。 ――1974年ですから、44年前です。 小林 それで今年は戦後73年でしょう。そりゃあ、戦争を経験していない方々のほうが世の中には多いわけだ。それはそれで、怖い世の中ですよ。 疎開先のお寺にオペラのレコードがありましてね ――小林さんは13歳で終戦を迎えられていますが、戦時中のことですぐに思い出すことって、どんなことでしょうか。 小林 そうですね、ジャズが禁止されたってことかな。あれはアメリカ、「敵国」の音楽だからダメだった。ハワイアンもダメね。クラシッ

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  • あの夏、僕は母と妹を殺した。70年間、語ることのできなかった戦争の記憶

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    あの夏、僕は母と妹を殺した。70年間、語ることのできなかった戦争の記憶
  • 婆ちゃんに戦争の話聞いてきた

    今年87歳になった婆ちゃんに、 正月、田舎帰った時に戦争の話を聞いてきた。 当時「この世界の片隅に」のすずと、 同じような年齢で戦争を経験した婆ちゃんに当のところは、 どうだったのかなと聞いてみたいと思ったのがきっかけだった。 婆ちゃんは7人兄弟の三女。 婆ちゃんのお母さんは、早く亡くなっていて 物心ついたころには、後としてきたお母さんに育てられたそうだ。 婆ちゃんが子供のころは婆ちゃんのお父さんは事業に成功していたらしく 家にはお手伝いさんが何人もいたらしいのだが、 戦争前に事業に失敗。 家は途端に貧しくなったらしい。 たまたま勉強が優秀だった婆ちゃんは、 小学校の先生が何度も何度も婆ちゃんの家に来て 婆ちゃんを女学校に入れて欲しいと、お父さんを説得したそうだ。 当時はまだまだ少なかった奨学金の話を持ってきてくれたり、 授業料免除の手続きなどをするなど、 当に熱心に動いてくれたらし

    婆ちゃんに戦争の話聞いてきた
    nicoyou
    nicoyou 2017/01/17
    うちの祖父母の自宅は戦前から建つ土塀なんだけど、近くの小さな川向こうは全部空襲で焼けて、こっち側だけ奇跡的に残ったんだよって言ってた。事実川向うだけ新しい街並みになってて初めて戦争を意識した幼少時代
  • 祖父は二次被爆者だった

    1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下された。 そして当時中学生だった祖父は、6日から1週間の内に広島市へ入市した。 これは父から聞いた話であり、私が祖父から直接聞いたのは「広島の原爆で二次被曝したから手帳を持ってるよ」だけだった。 多分子供に話す内容ではないと思ったのだろうが、祖父の死後、やはりどうだったのか気になった私は父親に聞いた。 1945年8月6日、広島県にある祖父の通っていた中学校(中心部のでは無いらしいが調べてみても分からなかった)の校長・教職員・生徒は、 陸軍学校の掃除という事で集合し、広島の中心地へ向かった。だが、9人だけは違った。 そこには祖父も含まれていた。祖父はその時、何らかの事情で行く事が出来なかった。 他にもスイカをべ過ぎてお腹を壊した生徒や、寝坊した生徒など祖父を含めて9人が行かなければいけない大切な仕事を休んでしまった。学校側もお怒りだったらしい。 だが

    祖父は二次被爆者だった
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