「本能寺の変」で織田信長が亡くなったあとの織田家の後継者について重臣たちが話し合った「清洲会議」の3日前に、信長の次男、信雄が羽柴秀吉、後の豊臣秀吉の指示を仰いだとみられる書状が見つかりました。専門家は、信長から秀吉の政権に移り変わる状況がうかがえる貴重な史料として注目しています。 村岡教授によりますと、文面は、現在の三重県北部に布陣した信雄が岐阜城にいる羽柴秀吉に「そちらで配置をよきように決め、私に連絡をください。近くに、わが陣を寄せます」と指示を仰ぐ内容と読み取れるということです。 織田家の後継者を決める清洲会議の前後の信雄の動向が分かる史料はほとんど見つかっておらず、村岡教授は、信雄が秀吉軍に加わろうとしていることがうかがえるとしています。 また、播磨教授によりますと、信雄はそれまで使っていなかった織田家の花押を書いていて、秀吉に対し織田家の後継者であると誇示したのではないかとみられ