戦国通史 争乱の備前・備中・美作 元弘の乱で、後醍醐天皇に忠を尽くし、その後の建武の新政では、後醍醐天皇に謀叛した足利尊氏に与して、南北朝期、播磨・備前・美作の守護に赤松氏が任じられた。しかし、嘉吉の乱に赤松氏が没落すると、播磨・備前・美作守護には山名氏が任じられた。そして、応仁の乱に再興をはかった赤松政則は細川氏に属して、旧領の回復を賭けて山名氏と戦い、ついに宿願の旧領回復を果たしたのである。 そして、美作・備前守護となった赤松政則は、再興とその後の応仁の乱に力を尽くした浦上氏を守護代に任じた。浦上氏は三石城を本拠とする赤松氏の根本被官であり、赤松氏の宿老として重きをなしていた。さらに則宗は京の治政にも力量を示し、将軍義政・義尚らの信任も厚かった。 備前国の動向 文明十五年(1483)金川城を本拠とする守護代松田元成が、備後守護山名俊豊の援助により蜂起。福岡城に拠る赤松氏守護代浦上則宗を
剣片喰(けんかたばみ)は、日本の家紋「片喰紋」の一種である。 宇喜多氏(うきたうじ、うきたし)は、備前国の戦国大名。 本来は、地形に由来する「浮田」姓だが、嫡流は佳字を当て「宇喜多」(宇喜田)、庶流は本来の「浮田」を称した。通字は代々「家」(いえ)、後に「秀」(ひで)を用いた。代々相伝の幼名は、宇喜多興家から宇喜多秀家の子・宇喜多秀規まで「八郎」が継承されている[3]。 家紋は剣片喰(剣酢漿草)だが、敵対していた備中国の名族三村氏が古くから剣片喰紋を用いていたためか『兒』文字紋も多用していた。近世では五七の桐や五三の桐を用いている。旗紋も兒文字とされているが、剣片喰や唐太鼓も散見され、兒文字は他の武将の旗紋の可能性もある。 宇喜多氏の出自について確実なことは不詳であり、多くの戦国大名同様に諸説がある。一般には備前三宅氏の後裔とされるが、宇喜多氏自身は百済王族子孫や平朝臣を名乗っていた。 な
宇喜多 直家(うきた なおいえ)は、戦国時代の武将。備前国の戦国大名。通称は三郎右衛門尉、のち和泉守。官位は従五位下。宇喜多興家の子とされるものの、近年否定されている[注釈 3]。子に秀家など。室は正室(『太閤記』では中山勝政の娘とされるが一次史料は存在せず名前や出自は不明)と、後に鷹取氏あるいは三浦氏の娘とされる円融院。 享禄2年(1529年)、宇喜多興家の子として生まれた[4]とするが、興家の名前が初めて登場するのは、直家の時代から150年ほど経った『和気絹』であり、延宝6年(1678年)に記された『西国太平記』では「父某が島村観阿弥に殺された」と記されている。一説に備前国邑久郡豊原荘(現・岡山県瀬戸内市邑久町豊原)にあった砥石城で生まれたという[注釈 4]。 軍記物に由来する通説によると、浦上村宗の敗死による混乱の中で、享禄4年(1531年)[2](または天文3年(1534年))、祖
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