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ブックマーク / deepbluedragon.hatenadiary.com (10)

  • アルチュセール理論への大雑把理解 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    認識論的切断とは、もともとバシュラールの科学哲学用語なのだが(バシュラール-アルチュセール-フーコーというフランス科学哲学の系譜がある)、マルクスは青年期とそれ以降では科学への認識方法が根的に変化したということである。廣松渉風に言えば、疎外論から物象化論へと変化した。実質アルチュセールも同じ事を言っている、ただし科学理論の枠内で*1。 「経済学批判序説」でマルクスが、科学的認識のどんな過程も、ある抽象的なもの、ある一般性からはじまり、現実の具体的なものからはじまるのではない、と言うとき、彼はイデオロギーと思弁的な抽象化のみを告発する態度と、換言すれば、イデオロギーの諸前提とじっさいに縁を切ったことを証言しているのだ。(「唯物弁証法について」p.327-8) ようするに、具体例だけを集めてそこから抽象概念を引き出すことは出来ないということだ。こうしたフォイエルバッハ的な考え方をやめたことが

    アルチュセール理論への大雑把理解 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • あるテレビCMを見た感想 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    最近、ある人材派遣会社のテレビCMを見てショックを受けてしまった。電車で帰宅するOLが仕事上の悩みに一人で々としている様子をアニメで描いたCMだ*1。これが日のサブカルチャーとしてのビジネス・ブームの行き着く先なのだ、と。 1990年代の終わりごろに日ではITバブルが始まりヴェンチャー起業が話題になり、その頃にビジネス・ブームは始まったと言える。私の場合はテレビ東京のビジネス・ニュース番組が明るく様変わりになったのを見て最初にそれを実感した。評論家の宮崎 哲弥はビジネスがサブカルチャー化したと言っていた。その後、ITバブルがはじけても小泉ブームやホリエモン・ブームなどが続き、ビジネス・ブーム(&投資ブーム)は収まらなかった。実際に雑誌やテレビ番組にはビジネスものが異様に増えた。しかし、そんなブームが明るく終わるわけがなかったのだ。 今や、仕事の上で昔の日のように周りのサポートを受け

    あるテレビCMを見た感想 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • 下らないアフォーダンス批判 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    アフォーダンスが自由意志と関係しているから批判するという話があるらしいのをネット上で読んで、相変わらず日は議論のレベルが低いなと思った。アフォーダンスは因果論とは無関係だし、そもそもギブソンは知覚の因果論に対して批判的だ。因果論とは無関係なのだから、自由意志とも関係がない。もししてるとしても、知覚の因果論はいかにして可能なのかと言うメタレベルの話。ギブソンがしようとしてるのは、知覚者とその環境がいかなる関係にあるかを記述するための方法を探ることである。その点では、彼の考え方は広い意味での構造主義に似ている。 だいたい日での議論のレベルの低さはほとんど構造主義の考え方を理解してないところから来ているように思える。日はフランス現代思想が流行ったくせにどうしようもない。認知科学でもピアジェやチョムスキーのような物の構造主義者がいたのだし、認知言語学だってその考え方はけっこう構造主義に近い

    下らないアフォーダンス批判 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • 宮台サイトへのコメントメモ - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    以下の引用はすべて「国家を草刈り場とする各エージェントの権益争奪戦について」http://www.miyadai.com/index.php?itemid=363 から 日の市民運動は「ノーマライゼーションの地獄」に鈍感なの。 ノーマライゼーション(normalization:辞書的には標準化、文脈から意訳すると均質化とか平準化とか)。戦後の日は経済成長による格差縮小こそが統合シンボルだったはず。私も最近の日の格差社会論はさして重要でないどうでもいい話だと思っていたが*1、だからといって今の日で格差OKと言ってしまったら人々の動員は困難な気もする。どうせノーマライゼーション支持の日のバカサヨクにそれを実現させる力などないから放っておけばいい。かといって勘違いなバカネオリベを跋扈させるわけにもいかないが。 「個人が埋め込まれた社会性」を強調する欧州流の共同体主義と違い、結社主義は「

    宮台サイトへのコメントメモ - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • 「脳を活かす」研究会発足記念一般講演会を読む - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    発起人に認知科学に関わる人物が多い「脳を活かす」研究会(安西さんまでいるよ)。この前久しぶりに行ったら更新されていた。 「脳を活かす」研究会 発足記念一般講演会 http://www.cns.atr.jp/nou-ikasu/transcript_200604.html いろいろあって面白い。一部を紹介しよう "Multiple Minds: Neuroscience of economic decisions" http://www.cns.atr.jp/nou-ikasu/transcript/200604/mcclure/index.html 「コークかペプシか」みたいな市場への応用の話だと考えるとちょっと引くが、実際には意思決定という認知科学で昔からやられている研究分野の脳研究への応用というまっとうな研究の紹介だった。ブランドで選ぶか味で選ぶか、なんて意思決定論でよくやられる話で、

    「脳を活かす」研究会発足記念一般講演会を読む - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • プロトタイプを実体化すべきでない理由 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    前回の続きです。前回の記事を公開してから、やっぱりウィトゲンシュタインの家族的類似性についても書かないと納得できる説明にならないよなぁと思った。しょうがないので今回、手短に説明する。 なぜ家族は似ているのか。このとき、家族全員に共通の特徴(例えば「鼻の形が同じ」)があるわけではない。普通は、母と息子は目元が似てるねとか、父と娘は口元が似てるねとか、息子と娘は顔の形が似ているねとか、各成員どうしでどっかは似てるけど、家族での共通の特徴を導くことはたいてい出来ない。このように互いに一部の特徴だけを共有する(すべてに共通の特徴はほぼない)ときに家族的類似性があるという。 で、早速プロトタイプの話。辞書的には事物の典型性はプロトタイプからの距離によって決まるとされる。ここで注意すべきは、プロトタイプを安易に実体化すべきでないことだ。上で書いたようにプロトタイプでは共通の特徴(定義的特徴)によっては

    プロトタイプを実体化すべきでない理由 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • プロトタイプについて - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    リンク元からたどったらこんな記事がありました。「完璧な鳥」は存在するか。 http://d.hatena.ne.jp/tihara/20060524#p1です。一応私が質問に答えられるので答えておきましょう(コメント欄がないのでトラックバックで。内容の正否は自分でご確認のほどを。もし間違っていても私は責任を負えません。ちなみに手元には文献なしなので記憶で書いてます) プロトタイプといったら認知心理学の用語であって、それが認知言語学(この場合は認知意味論)に影響しています。前回の記事で触れた構文法のプロトタイプは上記の記事で言及されているプロトタイプとはまた別です。基的な説明はウィキペディにあるこの説明でいいですよね(プロトタイプ理論 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%88%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%

    プロトタイプについて - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • ベンヤミンとニーチェとの微妙な関係 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    ベンヤミン話を少しだけ。宮台真司はベンヤミンに限らず、いつも分かりやすい説明をしてくれるのに感心する(「尊敬する中平卓馬に言及した文章をアップします」 http://www.miyadai.com/index.php?itemid=336←これに比べて某文芸雑誌に連載の北田氏によるベンヤミン論のヘボなこと)。私はベンヤミンを理解してるとはとてもじゃないが言えないが、ちょっと思ったことがあったので言及しておきます。 ベンヤミンの「ドイツ悲劇の根源」はニーチェ「悲劇の誕生」との対比関係で理解するのがいいと思う。実際にベンヤミンは「悲劇の誕生」の愛読者で、この著作への疑問から「ドイツ悲劇の根源」が生まれたと言える。ベンヤミンとニーチェとの関係は私自身は良く理解できないでいたのだが、この文章を読んでちょっとした理解のための方法を思いついた。それを書くことにします。 ベンヤミンのシンボルとアレゴリー

    ベンヤミンとニーチェとの微妙な関係 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • 何で日本って文化相対主義の肩を持つ人ばっかなの - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    科学的世界観のblog「世界内存在としての心」 http://nbsakurai.exblog.jp/3519170/ 河野哲也『 第五章 存在の具体性 ―― 世界内存在と認知 』よりの引用から。 P223 「心とは何であるか」と問うことは、「自分はいかなる存在か」と問うことと直接つながってくる。現在の私たちは、心について次のような想定をしていないだろうか。 (1)個体内主義 心はひとりがひとりずつ持っているものであり、それは個体の内部、とりわけ脳の中に存在する。 (2)心の非立脚性 ちょうど、どのハードウェアに載せるのかという問題とは独立してコンピュータ・ソフトウェアについて論じられるように、心を考える場合にも身体やそれをとりかこむ環境についてはさしあたり考慮する必要はない。 (3)「中央参謀部」理論 心は、行動を制御する脳の神経生理的過程のことである。それは、感覚器官から外界に関する

    何で日本って文化相対主義の肩を持つ人ばっかなの - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • ブログを読んでのどうでもいいおしゃべり - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    kajougenron : hiroki azuma blog: 解離的近代の二層構造論 http://www.hirokiazuma.com/archives/000194.html 前期/後期ウィトゲンシュタインの話から。すべて計算でOKの前期と、そんなわけないじゃんの後期。認知科学を前期に入れちゃうのは図式上しょうがないかもしれないが、私自身が扱っているのは後期的な認知科学の方だ。だから、アフォーダンスだのエスノメソドロジーだの、そういう話ばっかりしている。とはいえ、前期的な認知科学もきちんと一通り勉強してしてますんで。それはそれで面白いよね、趣味的楽しみとしてなら。ちなみに、社会生物学経由の進化心理学はどっちかというと前期だよね。進化論も一つじゃないことぐらいは知ってて欲しい。 各学問をつなぐメタレベルの統合理論はダメ、というのはよく分かる。そういうこと言う科学者って現代思想知らな

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