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ブックマーク / jun-jun1965.hatenablog.com (4)

  • 「現代文学論争」補遺 - jun-jun1965の日記

    「現代文学論争」のために書いたのだが、分量の関係で割愛したものである。未完。 福田和也という謎 福田和也(一九六〇− )は、江藤淳、柄谷行人の衣鉢を継ぐ文藝評論家とされ、慶応義塾大学環境情報学部教授である。これまでいくつかの論争を行ってきたが、むしろ福田自身が、謎めいた人物、論争的な人物だと言っていいだろう。 福田は慶大仏文科の大学院に在籍して、修士課程で追い出され、実家の仕事を手伝いながら、フランスが一九四〇年にドイツに降伏したあとの、ナチス協力作家たち(コラボラトゥール)を論じた『奇妙な廃墟』(国書刊行会、のちちくま学芸文庫)を一九八九年に刊行した。福田は、このにはほとんど反響がなくがっかりしたと語っているが、実際には江藤淳がこれに目をつけ、翌九〇年七月号の『諸君!』に「遥かなる日ルネサンス」を「大型新人登場」という見出しとともに載せ、論壇デビューした。これは隔月で四回連載され、同

    「現代文学論争」補遺 - jun-jun1965の日記
  • ■ - jun-jun1965の日記

    どうも「東大教授」というものは誤解されていて、ドイツ文学者で東大教授なら独文科教授だ、などと考える人が多いのだが、実際は戦後は教養学部というのがあって、そちらの教授のほうが多いので、そっちにいる確率も高い。各研究室が、きちんと歴史と過去の在籍教員を記したものをネット上に置いておいてくれればいいのだが、なかなかそれもなく、中にはオリジナルサイトさえない研究室もある。それで、各研究室について、在籍教員の歴史を表にしてみた。まだ全部ではなく、私の関心に沿った形である。

    ■ - jun-jun1965の日記
  • 私は宮台真司に負けた - jun-jun1965の日記

    こないだ、いつの間にか週刊朝日に連載を始めていた中森明夫が「宮台真司の時代」があったと書いていた。中森は途中まで宮台の協力者だったが、自分が離れてから天皇がどうとか言い出しておかしくなった、と前から言っている。 私も宮台を批判していたが、宮台は答えなかった。私は売春必要悪論に転向したが、宮台の「援助交際は家父長制を解体する」などというのはもちろんでたらめ。その種の議論では私の勝ちである。あるいは中森や大月隆寛の勝ちである。 しかし、二十歳年下の東大名誉教授の娘と結婚して子供まで作ったという、人生上の幸福(少なくとも他からはそう見える)において、私は宮台に負けた。宮台の結婚は45の時だったが、私が45までに、二十歳年下のお嬢さんはおろか、結婚して子供をこしらえるなどということができる可能性は極めて低い。 そういう意味で、負けたのである。何も結婚して子供作るばかりが幸福じゃないだろうとか、そう

    私は宮台真司に負けた - jun-jun1965の日記
  • 福田和也氏への感謝 - jun-jun1965の日記

    昨日発売の「週刊新潮」で、福田和也氏が私の『谷崎潤一郎伝』をとりあげ、見開き二ページで絶賛してくれている。小谷野は「文壇では毀誉褒貶がありますが--私の云うことではないですね--アカデミズムに基盤をおく著者としては、抜きんでた力をもっていることは、衆目の一致するところでしょう」とあった。 私は福田氏についてはずいぶん厳しいことも言ってきただけに、いいものはいいと認めるその姿勢に率直に感謝したい。文章にもcondescendingなところがない。 谷崎先生は、その晩年の随筆「雪後庵夜話」で、「細雪」の第一回を読んで実にそっけない批判を加えた広津和郎と、数日後に志賀直哉邸で顔をあわせてしまい、志賀と広津が困惑するのを前に「何気ない口調で「広津さん・・・・」と気軽に呼びかけた」と書いている。このことはにも書いたが、続けて先生は、批判には他日創作をもって答える、としている。 『源氏物語』の現代語

    福田和也氏への感謝 - jun-jun1965の日記
    nisemono_san
    nisemono_san 2006/07/14
    噂の福田×小谷野
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