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仏教に関するnizimetaのブックマーク (20)

  • 求道っぽいことをしていた頃~上座仏教と大乗仏教とを統合したという瞑想指導者編 - 備忘録

    一時期、色々な瞑想会や坐禅会を巡っていたことがありました。 四十代になり、中高年の孤独に問題意識を感じるようになって、仕事と家族以外での人間関係を構築する上で、今更一から新しい趣味を始めるのも何であるし、坐禅なら座っているだけだから手軽であろうということから始めたのです。 友達作りを兼ねて始めたものでしたから、色々な所にお邪魔しました。 その中で、曹洞宗の施設で行われるものなのですが、指導者が在家という珍しい坐禅会があり、その指導者の人から興味を持っている坐禅・瞑想の指導者を4人教えてもらいました。 その後、半年ほどの間に、その4人と会いました。 そのうち3人は人間的にも魅力があって、一人とは今でもリアルの付き合いがあり、一人とは年賀状のやりとり程度の関係が続いています。 しかし、4人のうち1人だけ、反面教師的な人がいました。 その人は、上座仏教と大乗仏教とを統合した瞑想指導をするとのこと

    求道っぽいことをしていた頃~上座仏教と大乗仏教とを統合したという瞑想指導者編 - 備忘録
  • 【参考資料】瞑想の副作用(第2版) - 坐禅普及

    (1)大谷彰『マインドフルネス入門講義』 「マインドフルネス実践中にトラウマの自然除反応が発生することからも明らかなように、臨床マインドフルネスでも治療の差し障りとなる反応が生じることは早くから知られています(略)。マインドフルネスに伴う弊害をテーマにした論文(略)には、自然除反応や意識変容をはじめ、リラクゼーションに伴う不安とパニック、緊張感、生活モチベーション低下、退屈、疼痛、困惑、狼狽、漠然感、意気消沈、消極感亢進、批判感情、『マインドフルネス』依存、身体違和感、軽い解離感、高慢、脆弱性、罪悪感といった広範囲にわたる項目が記載されています。このリストから臨床マインドフルネスが禁忌となりやすい条件が推察できます。 仏教に造詣の深い精神科医精神科医マーク・エプスタインは、臨床マインドフルネスの悪影響について、マインドフルネスの進展レベル(初心者/熟練者)、およびクライアントのコーピング能

    【参考資料】瞑想の副作用(第2版) - 坐禅普及
  • 【修行者列伝〈ミャンマーで出逢った修行者たち〉#31 】 絶対に引退しない修行者

    J氏 アメリカ人 80代 男性 J氏が最初にマインドフルネスのS瞑想センターに現れたのは2014年12月。しかしJ氏はこの時既にミャンマーの民族衣装のロンジーという腰巻きを着用し慣れていた。それは何故か? J氏が生まれたのは第二次世界大戦中のポーランド。彼はユダヤ系で、しかも当時のポーランドはナチスドイツの占領下にあったという。 だから彼は幼少時には、相当恐ろしい思いをしながらアメリカ移住したようだ。アメリカではカリフォルニア州のオークランドで育ったという。 J氏が仏教に興味を持つようになったのは1970年代初頭。ちょうどその頃、現在のアメリカのヴィパッサナー瞑想の草分け的存在であるジャック・コーンフィールドやジョセフ・ゴールドシュタインなどが、タイのアーチャン・チャーの元やミャンマーのマハーシ瞑想センターなどで修行していた。だからJ氏も彼らと同世代の修行者だという事になる。 しかしJ氏

    【修行者列伝〈ミャンマーで出逢った修行者たち〉#31 】 絶対に引退しない修行者
    nizimeta
    nizimeta 2021/03/29
    “「この老いゆく心身、病みゆく心身、死にゆく心身に『俺』『俺の』としがみついた時と、そう思わなかった時との反応の違いを観察してみてはどうでしょう?」”
  • Vipassana Meditation

    誰もが安らぎと調和を求めています。 それが私たちの生活に欠けているからです。私たちは時として心を乱され、苛立ち、調和を失い、苦悩します。そして、乱された心は自らの内に留まらず、他人をも巻き込もうとします。惨めな人の乱れた心は周りの空気をも惨めにします。周りにいる人たちのすべての心を乱し、苛立たせます。これが正しい生き方であろうはずがありません。 人は自らの内に、そして他の人との間にも、調和をもって生きて行かねばなりません。人間は社会的動物であり、社会に生き他の人と交わって生きて行かねばならないのですから。では、調和を持って生きるにはどうすればよいのでしょうか。どうすれば私たちの内に調和を見い出し、周囲とも調和を保つことができるでしょうか。どうすれば他の人もまた、調和と安らぎをもって生きられるよう助けることができるでしょうか。 苦しみから脱するためには、 それを生み出している原因を知らねばな

  • 心の中の「自然現象」|ニー仏|note

    人間の感情(気持ち)の問題に関しては、このところのツイッター界でもずっとホットな話題であり続けているけれども、そうした気持ちに関する人々の呟きを眺めていて、一つ気がついたことがある。それは、どうも現代日社会のそれなりに多くの人々は、気持ちこそが「自分」というもののリアルな質そのものだと考えていて、ゆえにそれを周囲の他者や社会に承認もしくは肯定させることができないと、「自分」そのものを否定されたように感じてしまい、それで不幸になってしまうらしい、ということである。 以前の記事にも書いたことだが、少し時間をとって内観してみればわかるように、感情や気持ちというのは、私たちが自分の意志によって心に「浮かばせる」ようなものではなく、様々な条件づけの結果として、心に「勝手に浮かんでくる」ものである。 そんな感情や気持ちを「私そのもの」であると考えて、それに対する所有の感覚や責任感から、「この感情は

    心の中の「自然現象」|ニー仏|note
  • 上座部仏教の思想形成―ブッダからブッダゴーサへ

    出版社内容情報 ブッダゴーサの作品分析を通してその思想的独自性を解明し、上座部仏教のみがブッダの流だとする立場を覆す画期的研究。 目次 序論 第1篇 成仏伝承の展開(上座部大寺派の成仏伝承;仏伝作品の成仏伝承;ブッダゴーサの縁起解釈) 第2篇 修行体系の再構築(修行論の系譜;『清浄道論』の編集方法;ブッダゴーサの思想史的位置) 第3篇 パーリ正典の確立(パーリ正典の成立過程;北伝四阿含の改編;ブッタゴーサの仏説論) 結論 著者等紹介 馬場紀寿[ババノリヒサ] 1973年青森県生まれ。2006年東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。現在、東京大学東洋文化研究所助教。博士(文学)。Research Associate,Darwin College,University of Cambridge(データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) ※書籍に掲載されている著者及び

    上座部仏教の思想形成―ブッダからブッダゴーサへ
    nizimeta
    nizimeta 2018/08/27
    “ブッダゴーサの作品分析を通してその思想的独自性を解明し、上座部仏教のみがブッダの本流だとする立場を覆す画期的研究”
  • 蓑輪顕量「仏教瞑想論」

    (05/13)デーヴィッド・ゴッドマン「覚醒の炎-プンジャジの教え」(5) (05/11)デーヴィッド・ゴッドマン「覚醒の炎-プンジャジの教え」(4) (10/23)デーヴィッド・ゴッドマン「覚醒の炎-プンジャジの教え」(3) (10/15)デーヴィッド・ゴッドマン「覚醒の炎-プンジャジの教え」(2) (10/14)デーヴィッド・ゴッドマン「覚醒の炎-プンジャジの教え」(1) (10/10)マーシャル・ゴーヴィンダン「ババジと18人のシッダ-クリヤー・ヨーガの伝統と自己覚醒への道」(9) (10/08)マーシャル・ゴーヴィンダン「ババジと18人のシッダ-クリヤー・ヨーガの伝統と自己覚醒への道」(8) (10/07)マーシャル・ゴーヴィンダン「ババジと18人のシッダ-クリヤー・ヨーガの伝統と自己覚醒への道」(7) (10/04)マーシャル・ゴーヴィンダン「ババジと18人のシッダ-クリヤー・ヨ

    蓑輪顕量「仏教瞑想論」
  • 八正道 - Wikipedia

    法輪は八正道のシンボルとされる 八正道(はっしょうどう、巴: ariya-aṭṭhaṅgika-magga, 梵: ārya-aṣṭāṅga-mārga [1])は、仏教において涅槃に至るための8つの実践徳目である正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のこと[2][3][4]。八聖道[4][5](八聖道分[6])、八支正道[4][7]、もしくは八聖道支[8][9]ともいう。「道(magga)」とは仏道、すなわち解脱への道のこと。 八正道は釈迦が最初の説法(初転法輪)において説いたとされる[4][10]。四諦のうちでは道諦にあたり、釈迦の説いた中道の具体的内容ともされる[4]。 分類[編集] 八正道を示した法輪 katamo ca bhikkhave, ariyo aṭṭhaṅgiko maggo, seyyathīdaṃ: sammādiṭṭhi sammāsaṅkappo s

    八正道 - Wikipedia
  • ミッチャーサマタ(邪定)

    ミッチャーサマタ(邪定) テーラワーダ仏教では、推奨しない瞑想の仕方があります。サマタ瞑想とヴィパッサナ瞑想ともに、やってはならないとされている瞑想の仕方があります。 今回は、テーラワーダ仏教で「やってはならない」とされているサマタ瞑想についてご紹介します。 そもそもサマタ瞑想とは、一点に集中する瞑想の仕方になります。一点に集中するといっても、心を力強く集中することはしません。 といいますか、こういう瞑想の仕方が「やってはならない瞑想の仕方」の一つになります。 仏教の瞑想の仕方はソフトです。また仏教で推奨するサマタ瞑想は40種類に分類されます。 テーラワーダ仏教圏で禁じているサマタ瞑想を「ミッチャー・サマタ」といいます。ミッチャー・サマタとは直訳すると「邪定」といいます。 ミッチャーサマタとは、文字通り、邪な定(サマーディ)です。では、ミッチャー・サマタ(邪定)とは一体、どういう瞑想なので

    ミッチャーサマタ(邪定)
  • 性欲は罪ですか? - ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

    質問 「”賢者は、蛇の頭を払い避けるように欲の対象から離れて幸福に生きる” というようなことをお釈迦様は言っておられます。欲の思いが生じて、願いがかなうと確かに喜びを感じます。 しかし……、それがだめになったら矢に打ち抜かれたようにもがき苦しむ...ということですが、それが自分にはよくわかりません。 欲を、避けて、避けていく生き方じゃ、なんかつまらないんじゃないかというのが自分の中にあります。 たとえば、「これべたら美味しいんじゃないか、と思ってべてみたら美味しかった」とか。 瞬間瞬間、欲の成就を目指して生きているというか…...。 そのことで、大変な罪悪感があります。そのために瞑想するんですけども……、欲について悩んでいます」 回答(スマナサーラ長老) まずいいたいことは、仏教をしっかり勉強してください、ということなんです。 仏教の知識としてみると、まだまだたくさん勉強するものがあり

    性欲は罪ですか? - ブッダ ラボ - Buddha Laboratory
  • ドイツ人は浄土真宗を受け入れるのか? 欧州最大の日本仏教寺院「ドイツ惠光寺」の取り組み - エキサイトニュース

    ドイツに2900坪の敷地を持ち、山門、阿弥陀堂、鐘堂、浄土庭園を配す格的な仏教寺院がある。場所はデュッセルドルフ。 格的な浄土真宗願寺派(通称:西願寺)の伽藍が広がるここ惠光寺は、日から派遣された同宗の僧侶2名がいる、デュッセルドルフの名所の1つだ。 デュッセルドルフは日企業の駐在員事務所が集まる「ライン川の小東京」と呼ばれる街である。日企業の駐在員とその家族を中心に、8000人以上の日人が暮らしている。惠光寺を含む文化施設「惠光」日文化センターは、在留邦人の多くが居を構える市内西部、ニーダーカッセル地区に立っている。 ドイツはキリスト教が色濃い国だ。ライシテ(宗教的中立性)の思想により政教分離が徹底されている隣国フランスと異なり、ドイツは教会税など社会システムに宗教が見え隠れする。 そのキリスト教色が強いドイツにおいて「惠光」日文化センターは、どのような存在なのだろう

    ドイツ人は浄土真宗を受け入れるのか? 欧州最大の日本仏教寺院「ドイツ惠光寺」の取り組み - エキサイトニュース
  • リトルブッダ - 備忘録として

    年末年始はヘッセの「シッダールタ」を読み、1993年の映画「リトルブッダ」を観た。今年もブッダ探求の年になる予感がする。 ヘッセは「車輪の下」のあのヘッセである。「シッダールタ」というのでブッダのことを書いたものかと思って読み始めたら、実はシッダールタはブッダのことではなく主人公の名前で覚者ブッダは別にいる。シッダールタは一度はブッダ教団に入るがブッダの教えに納得できず間もなく教団を抜け祇園精舎を去る。遊女カマーラや商人カーマスワーミとの世俗に浸りきり堕落した生活を送るが、ある日空しさを覚えその生活のすべてを捨てる。そのとき遊女カマーラはシッダールタの子供を宿していたがそれを知らないままにシッダールタは渡し守との生活を始める。渡し守になったシッダールタは成長した息子に会い再び煩悩や執着に苦しめられる。それでも渡し守として川を見続けているうちに、シッダールタは川の流れに身をまかせることを学び

    リトルブッダ - 備忘録として
  • 律蔵とは何か * 真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

  • マインドフルネス瞑想入門にプラユキ・ナラテボーさんの本や講座が良い2つの理由

    nizimeta
    nizimeta 2016/12/13
    “瞑想をする人は、特に4章の「たかが言葉、されど言葉」と、5章の「戒律に守られ、自由に生きる」と、7章と8章の瞑想方法について3回は読んでおくべき”
  • http://www7b.biglobe.ne.jp/~zuiun/112tosot.html

    nizimeta
    nizimeta 2016/11/12
    兜率の三関
  • 慈悲の瞑想 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "慈悲の瞑想" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年11月) 慈悲の瞑想(じひのめいそう)、あるいは、慈愛の瞑想[1][2](じあいのめいそう、パーリ語: mettā bhāvanā[3]、mettā kammaṭṭhāna[4]、英語: cultivation of loving-kindness)とは、上座部仏教における瞑想の一種である。パーリ語の名称である「mettā bhāvanā」(メッター・バーヴァナー)は、「慈(慈愛)の育(はぐく)み」といった意味。 上座部仏教における、サマタ瞑想に入る際の40種類ある瞑想

  • 僧侶という職業

  • タイで実践されている瞑想法

  • 瞑想修行中の苦悩 ~煩悩の国へ帰るということ~

  • 瞑想修行中の苦悩 ~性欲~

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