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2014年9月10日のブックマーク (4件)

  • 砲台博物館

    昔から地理的な条件から常に外国から侵略され易いことからウラジオストクは、地域ごと要塞が築かれていました。以前紹介した要塞博物館も、同じように建設されたものです。 さて、今回視察の重点でもあるルースキー島の視察の合間に、海上から来る侵略者と応戦するために設けられた砲台を見学しました。 今では砲台博物館として、島を訪れる市民や外国人旅行社に解放されていて、館長が見学者に詳しく説明をしてくれます。 山全体が砲台の基地施設になっていて、必要な電力も自家発電施設を持ち対応しています。 約40分位の見学時間でしたが、日から見て大変珍しい施設に驚かされました。 ちなみに、この砲台から海に向かって実戦的撃たれたことは、現在まで一度もなかったそうです。 ところで、入館料は?と聞いてみたところ無料ですが、写真撮影する人から100ルーブルを徴収していました。そして、更にサービスとして1000ルーブル払うと空包

  • 釜山橋頭堡の戦い - Wikipedia

    釜山橋頭堡の戦い(プサンきょうとうほのたたかい, 英語: Battle of Pusan Perimeter)は、朝鮮戦争中の1950年の8月から9月にかけて、釜山付近に集結したアメリカ軍を主力とする国連軍[† 1]と、朝鮮半島の大部分の地域を制圧していた朝鮮民主主義人民共和国軍(北朝鮮軍)の間で行われた戦闘である。 第8軍司令官ウォルトン・ウォーカー中将が、朝鮮半島の過半を北朝鮮軍が手中にしている状況で、全前線を後退させることで戦闘正面を縮小して兵力を集中させる「朝鮮戦争で一番重要な判断と決心」を行い、これを実行した[2]。 この戦闘により、国連軍は、1950年9月10日[† 2]に開始された仁川上陸作戦の成功により反撃に転じるまでの間、釜山を保つことに成功した。 8月に至るまでの人民軍の南侵経過 1950年6月25日の北朝鮮の奇襲攻撃による開戦以来、大田の戦いに至る遅滞戦闘でアメリカ

    釜山橋頭堡の戦い - Wikipedia
  • 武将の名前で、もっとも長い名前は誰ですか?官位、自称、通称などをひっくるめての名前です。※寿限無は除外して下さい。 - 先達の回答者の表記... - Yahoo!知恵袋

    先達の回答者の表記は、来 織田右大臣正二位兼行右近衛大将平朝臣信長 征夷大将軍淳和奨学両院別当源氏長者徳川従一位行右大臣源朝臣家康 小早川権中納言従三位兼行左衛門督平朝臣秀秋だが 羽柴権中納言従三位兼行左衛門督豊臣朝臣秀秋の時代もあった。 他例なら、 関白内覧豊臣氏長者一座羽柴太政大臣従一位豊臣朝臣秀吉 平清盛は 検非違使別当正三位行権中納言兼右衛門督皇太后宮権大夫平朝臣清盛 といった時期もある。 大内義隆の場合、 周防国守護職長門国守護職石見国守護職安芸国守護職豊前国守護職筑前国守護職大内正四位下行大宰大弐兼兵部権大輔伊予介周防介多々良義隆朝臣といった時期もある。 因みに、武将ではないが、回答例にあった菅原道真の場合 従五位上守治部権大輔兼行式部少輔文章博士加賀権守菅原道真朝臣とか 蔵人頭従四位下行左中弁兼左京大夫式部少輔菅原道真朝臣といった時期もあった

    武将の名前で、もっとも長い名前は誰ですか?官位、自称、通称などをひっくるめての名前です。※寿限無は除外して下さい。 - 先達の回答者の表記... - Yahoo!知恵袋
  • 官制大観

    当サイトについて 当サイト「官制大観」は、わたしを含む一般の人々を対象に、人文系独習のための、律令官制度に関する導入的なリファレンスとして、(当初、公開を予定していなかった、来、公開できたもんじゃない)自習ノートをもとに作成しています。個人のエンターテイメントとしてではなく、講座や論文を趣旨とするものでもなく、ノートは眠らせておくよりも、と、自身の勉強を兼ねて公開しているものです。広義な「律令制度下の官制」がメインで、他の官制に手を付ける予定はありません(若干載せてはいますけど)。 記述に際して(以下敬称略)、わたしの自習ノートの出発点となった講談社学術文庫「新訂 官職要解」和田英松著・所功校訂、及び、養老律令の現代語訳の底とした岩波書店「日思想体系 律令」井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫校注をはじめ、文に反映していないものも含めて、多くの研究者の業績を参考にさせていただいていま