ただしもし論理学が科学であるならば(そうしてたぶん多くの人はそれに同意するだろう)。 私は神を信じる。天と地の造り主を信じる。主なるイイスス・ハリストスを信じる。聖神を信じる。聖にして一つの公なる使徒の教会を信じる。これらの言葉は真実であると知りなさい、なぜなら私はそう信じているからだ――だから、私が神を信じるという、その詞は真である。 近代論理学と古典論理学を分かつ概念のひとつは命題の階梯だ。クレタ人のパラドックスがパラドックスであったのは、たんに自己言及命題だったからではない――むしろ「XはAである」と「XはAであるとYはいう」の論理的構造の違いを古典的枠組みが把握しきれないところにパラドックスが生じた(カントのアンティノミーじゃないが、パラドックスのなかには命題の性質を無視したところで命題を操作することで生じるものがある)。 繰り返す。「私はAを信じる」、書き直して「Aがあることを私