2010年3月9日のブックマーク (2件)

  • 「正しい立ち位置」への渇望 - 今日の雑談

    「正しい立ち位置」を取ろうとするために、その理屈が合理性を欠くということは決して珍しいことではない。 ネットの徒党なり同調化圧力を見るときに、どういう類の「正しい立ち位置」が合理性を乗り越えさせてるかを見ると分かりやすい。ネトウヨの場合は愛国心なり憂国でしょう。サヨクの場合は、反権力でしょう。「日人にとって日が重要である」「権力は危険な暴力装置である」、いずれも真正面から無防備に言われるとごもっともなので、そこにはまってる人にとってはそこが「正しい立ち位置」としての出発点になる。そこで一歩も動かないので、合理性を欠く場面が当然出てくる。しかし、自分は正しいという信念は変わらない。あー、こういう人と議論するのは、ホント大変。 で、外国の疑似科学批判の場合は、信仰の裏返しが過剰に出てくるから、たとえば罵倒芸で煽る。ことの是非は置いといて、事情は分かる。 さて、日のニセ科学批判になると分か

    「正しい立ち位置」への渇望 - 今日の雑談
    njamota
    njamota 2010/03/09
    「「合理性を欠く」「合理性が徹底しない」理由は、…「正しい立ち位置」をとりたいから」その「立ち位置」を正しいと判断させるのは何なのだろう?何がその「立ち位置」を渇望させるのだろう?
  • 「ニセ科学」の社会的要因 Abstract for Symposium at JPS meeting Sprin 06 (Ikeuchi)

    第六十一回物理学会年次大会(2006 年 3 月)シンポジウム「『ニセ科学』とどう向き合っていくか?」概要 「ニセ科学」の社会的要因 池内了(早稲田大) いつの時代でも、日常で経験する世界には非合理な思考が潜んでいる。病気になれば「なぜ、この私が病気になるの?」と問いかける。日頃、酒を飲み、タバコを吸っていても、(それらの悪癖に染まっていなければ、なおいっそう)いざ病気となると「なぜ、この私が」と神の理不尽さを恨むのだ。未来のことは誰にもわからず、個人にかかる不幸はだれにとっても非合理なのである。非合理とは知りつつも、理由を知りたい、未来がどうなるか知りたいと願うのが人間であり、当然ながら科学はそれに対して何も答えてくれない。科学は個々の人間の特性まで関わっていないからだ。 そこで非合理な仕打ちに非合理をもって対するというわけで、怪しげな宗教や疑似科学のご託宣に頼っていくことになる。血液型

    njamota
    njamota 2010/03/09
    無自覚の信仰について、示唆的。