2016年1月2日のブックマーク (3件)

  • わたしにだって言わせない

    最近は別館のブログにも少しずつアクセスが増えて、うれしい限りです。あれは架空の「同業種経験者で話のわかる人」に向かってはしゃぎながらワーワー喋っているようなものなのでだいたいテンションがおかしいですが、そうではない堅気のお仕事の方もけっこうついてきてくださるので嬉しさにひとりニヤついています。ありがたいことです。ニヤニヤ。 そればかりか最近のこれに関しては「勉強になりました」という感想も多くいただき、みなさん当によい子ですね。いま「よいこ」で変換したら何よりも真っ先に「よゐこ」と出てきて面らいました。よゐこ、嫌いではないですが、入力したことがあっただろうか。でも出てきたってことはきっとあったんですよ。あったから出るんですよね。しょうがない。いいですよよゐこ。とか言いながら実は代表作であろうたくあんを乗せるコント、しかもその一シーンだけ切り取ったものしか見たことがないんですが、「シュール

    わたしにだって言わせない
    njamota
    njamota 2016/01/02
    「自分の選択が正しかったかどうかになんて、もはや少しも興味がありません…あの日のわたしのあの日の精いっぱいがそれだったんだもん、今さら誰にも何も言われたくないんです。わたし自身にさえもね」これ以上に何
  • 放射能恐怖という民主政治の毒(終):問題の解決に向けて(小野昌弘) - エキスパート - Yahoo!ニュース

    一目置く 放射線・原発関連問題を解決するうえで必須の要素は、専門家を専門家として尊重することだと考えている。これは誤解されやすいが、専門家の経験と専門性そのものに対する畏敬であり、階級社会的な上下関係では決してない。そこにある人間関係はいたって平等でありながら、相手の専門性に一目置き、専門性とその背景にあるもの尊重することが、専門家を尊重することの中身である(1)。これは、その人の人格をもてはやすとか、社会的立場から目上と考えるといった上下関係の導入とは異なる。その専門家が社会の中で責務を負っている、社会の専門性を尊重するという意味でもある。 実は科学者自身、専門家に聞けるときには専門家に聞くのがすっかり習慣になっている。ときには小さな問題解決のため遠方まで専門家を探しに行く。それはなぜか。専門性の深さというものを知っているからだ。それは最先端の知識についてだけではない。基的な考え方につ

    njamota
    njamota 2016/01/02
    科学・科学者に対して批判的な人の幾らかは、科学から拒絶された(と思い込んでいる)人だと思う。教育は大事なんだけど、そこで出来の悪い人が拒絶されたと思わないような対応の必要性を教育関係者が自覚する必要が
  • 悪いことは言わないから行った方がよい。つーか、行っとけバカ。理由は、..

    悪いことは言わないから行った方がよい。つーか、行っとけバカ。理由は、「それが『親戚づきあい』だから」。 あなたが、その親戚の集まりを回避したい理由を、あなた自身が完全に理解しているかどうか、ざっと読んだだけでもいろいろ想像できるが、そこはあえて問わない。それよりも、切実にあなたが考えるべきことがあるのだから。それは、親戚づきあいというのは、儀礼化するほど簡単になり、儀礼を避けるほど煩雑になるという事実だ。年に一度五時間で済む、というのは、おそらく現時点で「最も儀礼化された簡単な親戚づきあい」なのだ。 あなたは、正月のその5時間以外の機会に、祖父母宅に行ってきなさいとか親戚づきあいを強要されたりしたことがあるだろうか? 多分ないのだろう。年に一度のそれが、黙って逃げ出すほど苦痛だというのは、多分そういうことなのだろう。逆に言えば、「年に一度の5時間を付き合う」ことによって、あなたは一年間分の

    悪いことは言わないから行った方がよい。つーか、行っとけバカ。理由は、..
    njamota
    njamota 2016/01/02
    なぜ行った方が良いのか、行かないとどうなるか、具体的な話が全くない。これは、行かないとヤバいんじゃないかっていう増田の不安の告白なのではないか?一種のゼロリスク信仰だと思う。部落差別と同じ?