毎年桜花賞の時期になると,「第30回桜花賞馬のタマミは美人だった」という話が出てきます. さすがの私も1970年の桜花賞は見た記憶がなく(いちおう生まれてはいましたが), これだけ古いと写真もなかなか見つからず, 本当に「美人」だったのか確かめることができなかったのですが, 今回小学館文庫の 『「優駿」観戦記で甦る 桜花賞十番勝負」』という文庫本で, ついにタマミちゃんの顔を拝むことができました. その写真が上のものですが(無断掲載です,すみません), 確かに目がぱっちりしていて,美人顔のようです. しかしここで疑問が一つわいてきました. 「栗毛の美しい」タマミと書かれているものがいくつかあり, 『桜花賞十番勝負』の写真のキャプションにも「栗毛があざやかな勝利の舞い」とあったのですが, 血統を調べた限りではタマミの毛色は「鹿毛」です. これは間違いというよりは,美人→毛並みも美しい(はず)
1926年から1932年にまでに日本の宮内省下総御料牧場がイギリス、アメリカより輸入した8頭のサラブレッド牝馬、特に1931年と1932年に輸入された6頭の繁殖牝馬を総称して下総御料牧場の基礎輸入牝馬と呼ばれている。 種正 1906年、欧米列強との軍馬の資質差改善を目指し馬政局が設置され日本における本格的な馬産が始まった。それに伴い馬匹の需要拡大を狙った競馬の振興も積極的に行われたがやがて風紀の紊乱により競馬排斥論が高まり、さらにサラブレッドが軍馬に不向きとして育成対象から外れたこともあり官営牧場におけるサラブレッド生産はごく小規模なものに留まっていた。 しかし1923年、新競馬法の制定により競馬の施行について法整備が為されるとそれまで民間牧場(主に小岩井農場)から繁殖馬を譲り受けてサラブレッド生産を続けていた官営牧場からも独自の名馬を生産すべしとの声が高まり1926年、宮内省下総御料牧場
トウメイが、天皇賞、有馬記念を勝ちながら 最強と呼ばれない不運の馬で有った その子、テンメイはどんな馬で有ったのか テンメイを語る時、彼の戦跡より、 鮮烈に、中央競馬史上に残る 出来事がある テンメイの成績は 36戦6勝(中央)26戦7勝(公営) 天皇賞、京都大賞典、菊花賞2着 まず不運なのは、 その時代、最強と呼ばれてた マルゼンスキーが、8戦 全勝で引退してしまったことだ その後に残された馬は、相当の戦跡を残さない限り 名馬と呼ばれない事だ テンメイが勝った天皇賞で、マルゼンスキーが走っていて マルゼンスキーが、勝ったのならしょうが無いが テンメイは、戦う前に負けていた事になる それと、晩生の血と、天皇賞に勝った馬は 天皇賞に出れない、不運が有った 4歳夏を越してからは徐々に力をつけていったテンメイは クラシック最終便である菊花賞へと駒を進めた テンメイは直線で一旦は抜け出すもゴール前
この本に記しているのは、テンポイント、ヒカルイマイ、トウメイ・テンメイの親子にプレストウコウである。 私は昔、競馬をやっていた。馬、サラブレッドは美しい。これら馬と同じ世代のグリーングラスを那須の牧場に訪ねた時、その遠い平原が宿るような美しい眼に、魅了されたことがある。筋肉質の馬体も毛艶も美しい、それが駆けてくる時の蹄の音、中山競馬場の4コーナーで聞く音、自分に騎馬民族の血が流れているような郷愁を感じる。 この書にあるプレストウコウは私の大好きな馬である。韓国で種牡馬になったと聞いていたが、この書で、その余生を知った。思わず何度も涙が出た。 トウメイも有馬記念もよく覚えている。流感で6頭だてとなり、何とも白けたレースであったが、女傑トウメイだった。その女傑が晩年は穏やかに他の馬に譲るような生き方をしていたことを知った。 ヒカルイマイの追い込みは凄いものだった。ヒカルイマイの方は、その気性を
牝系 | 弥生賞を圧勝して早くも三冠候補との呼び声も高いロジユニヴァース。遂にノリがダービージョッキーになるのかと感慨もひとしおだ(まだ早いか)。もう1つ感慨深いのがその牝系。この馬のファミリーナンバーは「B3」。Bのつくファミリーナンバーなんて、特に日本では滅多にお目にかかれない貴重種である。恐らく、日本の競馬史上で重賞を勝ったのもロジユニヴァースしかいないのではなかろうか?このBの付くファミリーというのは、俗にハーフブレッドファミリーと呼ばれる。日本で言うところのサラ系というやつだ。勿論、今は立派にサラブレッドとして認められていますけど。このB3がサラブレッドとして認められたのがいつのことかというと1969年のこと。この年に、ロジユニヴァースの7代母である Lavant とその子孫を含むこのファミリーの馬が、ジェネラルスタッドブックに登録されています。さて、ジェネラルスタッドブックの規
「ダービー馬のオーナーになることは、一国の宰相になるより難しい」というイギリスの名宰相であるウィンストン・チャーチルの言葉は実は作り話だったそうですが、とにもかくにもダービー馬のオーナーになることが難しいというのは事実。日本でも、競走馬を所有するオーナーたちの一つの目標がこのレースを制することであり、あるものが馬主登録をしてわずか2年であっさりと所有馬がダービーを勝つ一方で、毎年ダービーに執念を燃やしながらも今一歩届かないオーナーもいます。 そんな輝かしいダービーの歴史が、東京競馬場に刻まれていました。これまで、どのような馬たちが日本ダービーを制してきたのか、それぞれの馬の写真付きで見られるようになっていたので紹介します。 東京競馬場の正門から入って左手側、ローズガーデンの近くにこのメモリアルプレートは存在します。 1932年、第1回の「東京優駿大競走」を制したのはワカタカでした。 父は戦
今回は日本ダービーももうすぐということで、写真ではないスペシャル編です。 競馬好きは、「あゝ、あの馬が勝ったダービーの年か、あの年は確か、長男が生まれて・・・。」などという思考をしてしまうほど、毎年記憶に残るレースですね。 僕は1971年以来、1974年(勝馬コーネルランサー、いい名前ですね)を除いて昨年まで毎年、TVもしくは府中でレースをリアルタイムで観てきました。 一番印象に残ったダービーは、シンボリルドルフやディープインパクトのダービーではなく、初めてダービーの馬券を買った1971年、ヒカルイマイのダービーです。 ヒカルイマイは、馬柱に母親がサラ系セイシュン、という奇妙な表記が記されていることで、特異な存在でした。サラ系というのは、母親の血統が3大始祖にたどりつけない、まあ、俗に言う氏、素性がはっきりしないということでしょうか。現在の馬柱にはこんな表記は見つけられません。その為か、き
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