元の職場である外務省の中をスタスタと速足で歩いていく。後ろから懸命についていきながら、「そうだ、あのときもこんな速足だった」と思い出した。一時は取材で毎日のように顔を合わせていた。いや、私たち報道側が追いかけ回していたというべきか。 国連大使や国連事務次長、ミャンマー政府の独立調査委員会委員などを務めた大島賢三氏が5月末、急逝した。ミャンマーに関するオンライン会合に自宅から参加していた最中に倒れ、病院に運ばれたが帰らぬ人となった。4月に外務省内で会い、「残念ですが、ミャンマー問題で安全保障理事会が貢献できることはないでしょう」との見解を聞いたばかりだった。 大島氏が国連大使を務めていた2004~07年、日本は国連外交で大きな足跡を残した。不首尾に終わったとはいえ、ドイツなどとともに常任理事国入りを目指した安保理改革をめぐる活動、北朝鮮のミサイル発射を受けた安保理での初めての対北非難決議(0
![【一筆多論】「次なる雲」の課題を託して 長戸雅子](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/f37fdc6cf1091d11fb3d30da74f8b3c909e804b4/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fwww.sankei.com%2Fcommon%2Fimages%2Fogp_default.jpg)