高田 東京乾電池として、司会が三波伸介さんのときに1回。本当は2本コントをとって、2週連続で放送する予定だったんだけど、劇団の1人がフンドシに日の丸を描いて出たの。日の丸をそんな風に扱っちゃダメだということで、1本ボツになった。言っとくけど、俺じゃないからね。 ―― はい(笑)。そのころは、人力舎に所属してお笑い活動もしていたと聞いたんですが。 高田 人力舎に入ってたわけじゃないんですよ。人力舎に篠原さんというマネージャーがいて、手弁当で僕たちを手伝ってくれたんです。東京乾電池は人気があるといっても、キャパの小さいジァン・ジァンが満席になったところで高がしれてるし、全然お金にならない。だから、人力舎というプロダクションには入れてくれなかった。僕は相変わらず、道路工事やら大道具のバイトやらで食いつないでましたね。 ―― 東京乾電池が全国的に知られるようになったのは、1980年に始まったフジテ
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