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ブックマーク / furuyatoshihiro.hatenablog.com (5)

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    ●『魔法少女まどかマギカ』を改めて最後まで観て、もう一度「魔法少女たちの舞台装置」(石岡良治『「超」批評 視覚文化×マンガ』所収)を読み返した。そして、うーん、成る程、と、改めて唸らされた。 まどかは、作品世界内の物理法則に従いつつ、その範疇で魔法少女-魔女システムを改変するという奇跡を、ラッセルのパラドックスのような「願い」を創造することによって成し遂げたと言える。しかしそれによって、自分自身がラッセルのパラドックスのような存在になってしまった。 ちょうど今『ユリ熊嵐』をたまたま観ているからそう思うのかもしれないけど、「まどマギ」と「ユリ熊」(というか、幾原作品)とは対称的でもあり、相互に相手を批判し合っていてもいるような緊張関係にあるのではないかと思った。 (「ユリ熊」最終回についてはまた別に書くつもり。) まず、幾原作品ではシステムは改変されない(つまり、その意味では革命は起こらない

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    noreply 2015/05/12
  • ユリ熊嵐 2015-04-01 - 偽日記@はてな

    ●『ユリ熊嵐』、最終話。おそらく、この作品を駆動させている根的な欲動は、殺しても殺しても何度でも蘇ってくる(まさにゾンビのような)不気味なるるの弟(みるん)に最も直接的に現れている。それは、システムの側からみれば、透明さを維持するためにいくら厳重に配慮しても、必然的にわき出てきてしまう「スキをあきらめない」存在と重なる。システムは、その透明性を保つために必然的に排除されるべきスケープゴートをつくらなければならない。だが、そのような、システムの都合によって仕立て上げられる排除の対象と、内発的にわき出てしまう(自らそこをハズレようとする)「スキをあきらめない」存在たちとは異なる。前者はシステムの一部だが、後者はその破れであろう。 その不気味さと釣り合うように過剰にかわいく造形されているみるんの存在は、「スキをあきらめない」ことを正当化する根拠は別にどこにもないということを示してもいる。みるん

    ユリ熊嵐 2015-04-01 - 偽日記@はてな
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    noreply 2015/05/12
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    ●『ユリ熊嵐』の第六話を観た。六話の直接的な感想ということではないのだけど、観ながら考えたことを書く。 幾原作品では、具体的なイメージと抽象的な概念が同列に並んでいる。それは、具体的なりんごと、「果物」という概念が、一枚の皿の上に並んで出されているようなものだろう。この感じを上手くつかめないと、それをメタファーとして理解してしまうのだけど、それはたんに文字通り、字義通りの抽象的な概念なのだと思う。たとえば「ウテナ」に出てくる「世界の果て」というのは、何かの比喩でもないし、そう呼ばれる秘密組織でもなくて、そのまま「世界の果て」という概念で、概念から手紙が届き、それぞれ具体的な姿や事情を持つ生徒会のメンバーたちは、概念からの手紙に従って決闘をしていると考えればいいと思う。そして、決闘の勝者に与えられるという「世界を革命する力」というのもまた、まさにそのまま文字通りの「世界を革命する力」という概

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    noreply 2015/02/19
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    ●「まど☆マギ」の劇場版(叛逆の物語)をDVDで観た。ぼくは「まど☆マギ」編については否定的だけど、これは割と面白かった。作品として充実しているというより「お話」の落としどころとして納得できた、という感じ。 テレビシリーズで人気のアニメが映画になると大抵、最初の三十分くらいは編のファンのためのサービスシーンという感じで、主要キャラクターたちがわいわい騒いでいるだけの顔見世興行的な展開となる傾向があるのだけど、この作品ではそれを利用して、顔見世興行みたいな効果だけが派手でヌルい世界として「信用ならない世界」を描いた上で、その偽の世界の構造(深層)が探られるという展開になっている。ぼくが「まど☆マギ」編で最も嫌なところは、安っぽいドラマで人の感情を過剰に波立てようとする手つきで、それをすごく下品だと感じてしまったのだけど、劇場版では、物語がまず世界の構造を探求するという形で進むので(そし

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  • 『時をかける少女』(細田守) - 偽日記@はてなブログ

    ●『時をかける少女』(細田守)をDVDで。評判の作品だったから期待して観たけど、丁寧につくってはあるけど、いまひとつ冴えない作品だと思う。観ながらずっと考えていたのは、アニメーションにおける風景表現のことと、それとも繋がるのだが、アニメにとっての「リアリティ」のあり様についてだった。つまりアニメは基的に「絵」だということで、「絵」のリアリティは、描かれた対象との類似によっては決して保証されないのだなあ、ということだ。 『時をかける少女』では、背景となる風景がとても丁寧に表現されている。しかも、新海誠みたいに、風景が安易に感情に流れてしまうようなことも、抑制されている。そこには過度な誇張や強調、象徴的な変形は抑制されており、きわめて写実的だと言える。(夏!、青い空!、強い光!、入道雲!、みたいな表現は、あまりにクリシェに過ぎるとは思うけど。)この映画には、東京国立博物館や上野駅前の交差点の

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