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2009年2月11日のブックマーク (11件)

  • ソプラノ女子とアルト女子・その後の人生 | 生活・身近な話題 | 発言小町

    今からおよそ20年前。私は関東地方某片田舎の高校で混声合唱部に所属していました。同学年の部員だけで20数名。今も全員と年賀状のやりとりが続いています。 さて先日のことですが、ここ数年届いた分の年賀状をまとめて整理していて今更ながら気づきました。 元・ソプラノだった友人からの出産報告の件数が、アルトのそれより圧倒的に多い、ということにです。当時ソプラノ・アルト両パートにそれぞれ9名ずつが所属していたのですが、子供の数については4倍近くの差がありました。 卒業後はかつてのパートの区別など意識もせずに付き合っていましたが、ここでそれぞれの近況を声ごとに整理してみたところ… ソプラノは今や全員が専業主婦。9名中8人に子供がおり、そのうち3人は3児の母。そういえばほとんどが20代で結婚しています(30代で結婚したのは1人)。 対するアルトには独身が4人。残り5人中に専業主婦は1人だけ。ついでに20代

    ソプラノ女子とアルト女子・その後の人生 | 生活・身近な話題 | 発言小町
    nununi
    nununi 2009/02/11
    ソプラノとアルトでは前者の方が既婚、子持ち率が高いという仮説。
  • 中日スポーツ:権田 代役では終わりたくない:365日FC東京(CHUNICHI Web)

    トップ > 中日スポーツ > 365日FC東京 > ニュース一覧 > 2月の記事一覧 > 記事 【FC東京ニュース】 権田 代役では終わりたくない 2009年2月11日 紙面から FC東京のGK権田修一(19)が10日、開幕スタメン&Jデビューへの強い意欲を語った。チーム始動からGK陣で唯一フルメニューをこなし、シュートへの抜群の反応、正確なハイボール処理、速攻の起点となるフィードを放つなど、日増しに存在感を増すロンドン五輪の期待の星。塩田の長期離脱を受け、権田は「チャンスだと思うけど、ピンチヒッターでは終わりたくない」と胸の内を明かした。 プロ3年目。「舞台」への準備を着々と整えている。ピッチに立つ−。渇望感は増すばかりだ。 権田「今季の目標は試合に出ること。まず、1試合出ないと何も始まらない。試合に出られれば課題が見えてくる。欲も出てくる。何が足りなくて、何が重要なのか。自

  • 1978年論ノート05

    ■星新一が新井素子の中に見出したものは、何だったのか 78年は、新井素子が格的に活躍を開始した年です。 右の写真は、この年に発売された新井素子の最初の単行です。 新井素子の登場と、その受け入れられ方というのは、現在から振り返ってみると時代の節目となる大きな事件でした。 当時の私はそんなことを思いもせずに、無邪気に同世代作家の書いた小説を読んで喜んでいましたが、今にして思うと、ここでもはっきりと何かが変わっていたのです。 新井素子はSF専門誌「奇想天外」の新人賞で佳作をとり、78年2月号でデビューしました。この号が発売されたのは77年12月のクリスマス頃だったと思いますから、デビューは正確には77年ということになります。同時に佳作をとってデビューした5人の中には山弘などもいます。 この時にSFファンの間で話題になったのは、同じ号に掲載された選考座談会の内容でした。選考委員は星新

    nununi
    nununi 2009/02/11
  • 中日スポーツ:MF米本拓司<下> ナイジェリア戦のショック乗り越え「今度はやり返す」:365日FC東京(CHUNICHI Web)

    最大の衝撃。米にとって、それは07年韓国で開催されたU−17(17歳以下)W杯で対戦したナイジェリア戦だった。身体能力だけでなく、技術面も彼我の差は信じられないほど大きかった。 「いくら寄せても相手はプレッシャーを感じてなかった。平気な顔。まったくボールが奪えなかった」。交代するまでの35分間。ボール奪取が得意の米が、ひたすらボールを追い掛けるしかなかった。帰国した米の表情からは生気が失われた。伊丹高校サッカー部の山監督は「あの顔は忘れられない。今まで見たこともなかった」と振り返る。 米の全国大会経験は高1の国体出場だけ。大舞台の経験は少ない。だが、U−17W杯前の代表合宿で全国のエリートと対峙(たいじ)しても、ナイジェリア戦のように臆(おく)することはなかった。それまでは合宿から帰ってくると山監督に喜々として話をした。山監督は「『柿谷(C大阪)はすごい』とか、楽しんでいたな

  • 2007年大予想!女子大生が選んだ来年ブレイクしそうなスイーツは?!

    FRUITS ZIPPER・仲川瑠夏、バラエティ出演に備え“写経”「効果はありませんでした(苦笑)」 櫻井優衣は「読みが甘かった」【オリコン ライターズ】 『音が出たら負け』(19日放送 後8:00)の収録を終え、7人組女性アイドルグループFRUITS ZIPPERのメンバー・仲川瑠夏と櫻井優衣は、元気にあいさつをしながらかけ足でスタジオに登場...

    2007年大予想!女子大生が選んだ来年ブレイクしそうなスイーツは?!
    nununi
    nununi 2009/02/11
    幼児の頃から飲んでるぜ
  • F.C.TOKYO

    2009シーズン チームスローガン決定! [2/10(火)] この度、2009シーズンのチームスローガンを下記のとおり決定いたしましたので、お知らせいたします。また、併せて合言葉も下記のとおり決定いたしました。クラブ一丸となって今シーズンを戦います。ぜひご声援ください! 【2009シーズン チームスローガン】 今季も「Moving Football」を掲げ、ボールも人も動くサッカーをめざします。 さらにもっとも大事にしている観ている人の心も動かして、味スタを満員にしたいと思います。 【2009シーズン合言葉】 『味スタを満員に(しよう)!』 昨シーズンに引き続きクラブ全体がひとつとなり、ファンの皆様に強くアピールをしていきたいと考えます。

  • FC東京ファンの方お勧めHP - えふと

    FC東京を応援している皆さん、こんにちは。 様々なインターネット上から東京の記事やニュースを見るのは案外不便かもしれません。 FC東京に全体を見渡せるようなHPは残念ながらあまりありません。 公式ページに乗らないようなちょっとした話題なんかも知りたくなってくるとどこのページを見たらいいかと思います。 そのような方には http://b.hatena.ne.jp/t/fc東京 http://b.hatena.ne.jp/t/fctokyo または はてなブックマークからFC東京と検索をかけてください。 上記のアドレスを開いていただければ、トーチュウをはじめとするスポーツ新聞。FC東京公式サイトなどFC東京とかかわる記事やブログ、動画などがとにかくそろっています。 はてなブックマークが活発なチームはFC東京なのです。 これで情報通?とにかくFC東京が好きな方ならここのページを見ているだけで何が

    FC東京ファンの方お勧めHP - えふと
  • F.C.TOKYO 高橋秀人選手(東京学芸大学) 「JFA・Jリーグ特別指定選手」承認のお知らせ

    高橋秀人選手(東京学芸大学) 「JFA・Jリーグ特別指定選手」承認のお知らせ [2/10(火)] FC東京では、高橋秀人選手(東京学芸大学)を「JFA・Jリーグ特別指定選手」に申請しておりましたが、このたび (財)日サッカー協会より承認されましたのでお知らせいたします。 □高橋 秀人(たかはし ひでと)選手プロフィール

    nununi
    nununi 2009/02/11
    いらっしゃ~い♪
  • 中日スポーツ:GK権田修一 <下>磨いた技術と自信で守護神目指す:365日FC東京(CHUNICHI Web)

    Jユースサハラカップで準優勝に終わった権田(右)はJで栄光を目指す=2006年12月24日神戸総合運動公園ユニバー記念競技場で 長身に俊敏性を兼ね備えた権田に、GKの基礎を教え込んだのが、FC東京の下部組織を指導する浅野GKコーチだった。「中1のころは、GK技術は何もないに等しかった。ただ、吸収力は早かった」。キャッチング、ポジショニング、セービングの際の倒れ方。スポンジが水を吸い込むように、権田はすべてを自分のものにした。 中3冬の高円宮杯で、浅野コーチは教え子の進化に気づく。「いくらシュートを打っても入らない。これはミスするかな、っていう厳しいコースも止めてしまう」。夏に行われたクラブユース選手権で優勝し、磨き続けた“技術”に、日一の“自信”が加わっていた。「クラブユースの時はまだ緊張した顔だったのが、表情が堂々としてきた」。権田は、同世代の中でも飛び抜けた存在になっていた。04年

  • 中日スポーツ:GK権田修一 <上>小3で青赤軍団と運命の出会い:365日FC東京(CHUNICHI Web)

    幼いころから、あこがれていた。「駒沢によく試合を見に行ったんです。加賀見(健介)さんや、奥原(崇)さんがいて。奥原さんなんて10番ですごかった」。1999年、J1昇格を目指して激闘を繰り広げる青赤イレブンに、スタンドから熱視線を送る小学生。それが権田修一だった。 生まれは川崎市。両親ともに元バスケットボール選手で、特に父親は実業団でもプレーした一流選手だった。現在中学2年の弟もバスケット都選抜というスポーツ一家。180センチ台の父、170センチ台の母を持ち、体格に恵まれていた。 「ある招待試合でPKを止めて、GKとして優秀選手に選ばれて、それからはGK一筋だった」 小3の時、世田谷に引っ越したのを機に通い始めた駒沢公園のサッカースクールに、運命の出会いが待っていた。FC東京から派遣されていた吉FC東京U−18コーチは、「体は大きいのに足元の技術もある。ボール回しを見ただけではGKと

  • 中日スポーツ:MF米本拓司<中> 城福監督との出会いとうまくなりたい欲求:365日FC東京(CHUNICHI Web)

    2006年、U−17日本代表合宿で事をする米(手前(左))。アジアU−17選手権は、左足の骨折で出場できなかった 悲劇は突然訪れた。U−17日本代表の合宿中、突如、米は左足小指の付け根に違和感を覚えた。07年U−17(17歳以下)W杯の予選を兼ねたアジアU−17選手権の開催地シンガポールに飛び立つ2日前だった。 チームドクターに相談して検査すると、思いもよらない診断結果が待っていた。骨折だった。走ることはできただけに、がくぜんとする米。「うそだろ」と何度も自問自答するが、現実は変わらない。そして、当時代表を指揮していた城福監督(現FC東京監督)の部屋に呼ばれた。 クラブユース選手権(U−15)の関西地区予選で、中盤でことごとくボールを奪う15歳の米の姿を発見してから約1年がたっていた。現実を受け止められず、すすり泣く米。指揮官の目からも熱い涙がこぼれた。「オレにとっても苦渋の決