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ブックマーク / brighthelmer.hatenablog.com (5)

  • ネット上で社会学者の評判はなぜ悪いのか - 擬似環境の向こう側

    こんなタイトルのエントリを書くというのは、正直、悩ましい。 というのも、ぼくは社会学の正規教育は受けておらず、自分が社会学者だとはちょっと名乗れないからだ(制度的な理由で学位は「法学」だ)。 とはいえ、社会学部に勤務しているのは確かだし、社会学的なものに親しみもある。以下の文章は、あくまでそういう中途半端な立ち位置から書かれた「個人の感想」だということをまずは述べておきたい。 ネット上での社会学の評判はよくない。大変によくない。 実のところ、ネット上で積極的に発言をしている社会学者の数はさほど多くないと思うのだが、通常は社会学者だとはカテゴライズされない人も、「政治社会に関する発言をしており、かつ多くの人びとから反発を買っている人文社会系の学者」は「社会学者」とみなされてしまうことが結構ある。 それではなぜ、ネット上で社会学者はこんなにも嫌われるのだろうか。 社会学者が嫌いな人からは当然、

    ネット上で社会学者の評判はなぜ悪いのか - 擬似環境の向こう側
  • 「話せばわかる」という欺瞞 - 擬似環境の向こう側

    ぼくが電話回線を使ってネットに初めて接続したのは、いまからもう20年近く前の話だ。日でインターネットの商業利用が開始されてからまだ数年しか経っておらず、当時のぼくにとってネットはそれほど面白いものではなかった。 むしろ、ネットに接続するついでに加入したパソコン通信のほうがずっと楽しかった。若い人だと知らない人も多いかもしれない。ぼくが参加していたのはASAHIネットだったが、そこでは様々なフォーラムが用意されていて、関心のあるフォーラムに入れば見知らぬ人と特定のテーマで意見を交換することができた。画像のやり取りはできないので、完全に文字だけのコミュニケーションだ。 実にこっ恥ずかしいことをぼくもいろいろと書き込んだりしていたのだが、そこではどうしても参加者間の衝突が起きた。ASAHIネットでは実名でのやり取りが前提だったが、それでもかなり激しいやり取りが行われることがあった。最大規模を誇

    「話せばわかる」という欺瞞 - 擬似環境の向こう側
    obsv
    obsv 2018/07/25
    “説得することが目的であるかのような体裁は取りつつも、実際には自分と対立する相手がどれだけ愚かで誤っているかをギャラリーに見せつけることが議論の真の目的になる。”
  • 「ネット右翼が増えたのはリベラル左翼のせい」という主張について - 擬似環境の向こう側

    ものすごく長いので先に結論。「ネット右翼が増えたのはリベラル左翼のせい」という主張を受け入れるのなら、「リベラル左翼」は西村眞悟氏を支持すべきである。 以下、題。 「ネット右翼が増えたのはリベラル左翼のせい」という主張をさいきんよく見かける。これをネット右翼自身が主張していたら「俺らがグレたのはよー、先公がわりーんだよ」みたいな責任転嫁丸出しの甘えた言説になるので、おそらくはネット右翼ではない人たちがこういう主張をしているのだろう。自身の政治的立場を説明するのに他人のせいにするというのは格好悪すぎる。 それはさておき、この主張を額面通りに受け入れた場合、いかなる理由付けになるのだろうか。ぼくのようなへなちょこリベラルにも反省する部分があるかもしれないので、とりあえずいくつかの可能性を考えてみる。 (1)学校教育への反発 この手の話でよく出てくるのが、学校で「リベラル左翼」思想を押しつけら

    「ネット右翼が増えたのはリベラル左翼のせい」という主張について - 擬似環境の向こう側
  • 分析の封殺 - 擬似環境の向こう側

    再帰的な被告人 えらい文章を読んでしまった。『黒子のバスケ』脅迫事件の被告人意見陳述である。ネットで話題になったので、読んだ人も多いだろう。 「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開 「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開2 ぼくがこの文章を読み進めているうちに最初に思い出したのは、朝日平吾の事件だ。1921年9月、朝日は実業家・安田善次郎を刺殺し、その場で自殺している。橋川文三は『昭和ナショナリズムの諸相』という著作でこの事件を取り上げ、大衆社会論の枠組みを使って以下のように論じている。 朝日平吾の場合には、自己の存在が完全に断片化され、原子化された人間以下のものであるという強烈な挫折感がいだかれていた。… 朝日をつき動かした衝動は、逆説的な意味で不遇な大衆層のデモクラシー(=人間としての平等化)の要求を反映したものであり、伝統的な要因によって形成されたいっさいの人間的

    分析の封殺 - 擬似環境の向こう側
  • リベラルなナショナリストに勝ち目はあるか - 擬似環境の向こう側

    前回のエントリが意外なことに結構多くのブックマークを集めた。ブックマークのなかには「リベラル・ナショナリズム」について言及しているものもある。そこで、このエントリではリベラルなナショナリズムを取り上げてみたい。 …のだが、まずはぼくの個人的な体験談から。 あれはぼくがまだ大学院生だったころの話。友人と飲み会のあり方について議論をしていたときのことだ。ぼくは以前のエントリでも書いたように、アルコールに弱いこともあり、一気飲みなどで盛り上がるのが好きではない。たとえそれほど盛り上がらなくても、個々人が好きなように飲めば良いではないかという立場だ。それに対して友人は、飲み会で重要なのは場のノリなのであって、そういう空気を乱す行為は良くないと主張していた。 そこでぼくが思ったのは、思想の左右と集団主義的な思考というのはあまり関係ないのではないかということだ。というのも、思想的に見ればその友人はぼく

    リベラルなナショナリストに勝ち目はあるか - 擬似環境の向こう側
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