というわけで、GDHの行く末を見定めるというただそれだけのために「銀色の髪のアギト」を見てきた俺が来ましたよ。 アニメ映画、というのは「すべてがデザインされた映画」だからして、この「アニメ」映画に何が欠けているかというと、デザイン、様式の欠如なのだった。劇場アニメは特にそうだが、それぞれの作品は固有の様式を煮詰めた結果現出したディテールの集積によって、見せ場をつくっているものだ。「ナウシカ」のメビウス風なタッチだったり、「ラピュタ」のスチームパンク(ではないんだけど、厳密には)風だったり、特に最近の宮崎映画は「千尋」の擬洋風建築や「ハウル」のロココの、グロテスクなバロック化であったり、その様式において、ある種の過剰さを孕んでいるものだ。そうした「様式による一点突破」をメインアームにしているのが押井守であり、「Ghost in the shell」の水没香港都市だったり、「イノセンス」のチャ
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