⇒いくつかの失望と怒り - いまだに落ち着きのない三十路(アラフォー) から、id:T-3donさんのコメント。 差別の受容と文脈に関しては、sk-44@地を這う難破船さんも論じていますね。正直、地下猫さんの論との差異が何処で生じるのか今一つよく解らない(からブクマコメントできない)んですが、この後明らかになるのではないかと期待を持っています。いまだ回り道の途上である、と私は考えますので。 ごく簡単に言うと。表現、というのは社会通念のコードに対する異議申立としてある。社会通念のコードをそのままなぞってしまうなら、それは表現ではない。表現論的にはそうなります。無自覚になぞってしまうならそれは素人だし、自覚的になぞってみせるならそれはプロの仕事です。プロの仕事とは、商業ということです。そして、そもそも社会通念のコードが(性差別に限らず)差別的であるとき、その差別性を自覚的になぞってみせるプロの
女性を陵辱して言うなりにすることを目的とするゲームへの規制が主張されていることに対して、「表現の自由」の名の元に「規制まかりならぬ」などと言う輩がいるらしい。笑うべき論、と思う。 この件に関して、佐藤亜紀氏が6月3日付の日記で述べている次の内容は重要だと思われる。 『悪魔の詩』がそういう(注意:ムスリムは表現の自由を圧殺する、というプロパガンダの)トポスにならずに済む機会が、少なくとも一度はあった、と私は考えている――冗談みたいな話だが、在英ムスリム団体があの本に冒涜罪を適用するようにと当局に訴えた瞬間がそれだ。逆説的だが、もしイギリスの法廷が、冒涜罪は国教会とその首長である女王に対する冒涜に対してのみ適用される、などという固いことを言わずにラシュディ氏を召喚していたら(かつ、表現の自由が、とか言わずに、悪意の有無を徹底して追及していたら)、ラシュディ氏はむかつきながらも西と東の狭間に立つ
まず事実として、陵辱ゲームの根底には、社会になお存在する性暴力の非対称性と差別的な意識があるということについて疑うことはできないでしょう。そのことをふまえて想像すれば、たとえば「黒人だけを撃ち殺すゲーム」は当然規制の対象になるでしょうが、「ゲームの黒人は現実の黒人と違うからいいんだ」とか、「オレはリアルでの差別はひかえるけど自然と湧き上がるこの差別感情は否定できないからせめてゲームで差別させてくれ」という理屈が通用するかといえばしないと思います。個人あるいはきわめてクローズドなサークルでやる分にはともかく(規制のしようがない)、少なくとも市場の流通には乗せられない。「黒人差別ゲームがなくなったからといって黒人差別がなくなるわけではない」という意見はある意味ではそのとおりでしょう。しかしやはりゲームは規制されると思います。 難しいのはもちろん、陵辱ゲームにおける性差別的な価値意識は、黒人殺し
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