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ブックマーク / vobo.jp (4)

  • コイトゥス再考 江川達也 前編

    筆者(83年生まれ)の世代の男子にとっては『東京大学物語』を読むことがある種の性の通過儀礼であった、なんて言ったらさすがに言いすぎであろうか。 累計1500万部以上を売り上げ、いま現在に至るまで「究極のエロ漫画」、「萌えの原点」などと称される伝説の作品。今回のゲストである江川達也とは、言わずと知れたその作者である。 その横紙破りな発言、変則的な表現スタイルゆえ、しばしば江川は批判の矢面に立たされることもある。より直裁に言うなら、漫画界においてもアンチ江川は少なくない。だが、それは阿諛追従を頑なに拒み、常にエッジな表現を貪欲に追求し続けてきた結果。むろん江川自身、ただ罵られて閉口するようなやわじゃない。ダーティーダズンには定評あり、今回のインタビューにおいても、舌禍必至の過激な言辞が飛び交った。 究極のエロ漫画家・江川達也が語る、エロなき時代の性愛論。さらには宮崎駿の拭いがたい欺瞞性について

    okakao
    okakao 2012/11/26
  • 伏見憲明 ?コイトゥス再考? 越えがたきジェンダーという背理

    政治的な正しさの追求が必ずしも快の増大に帰結するとは限らない― 91年出版の『プライベート・ゲイ・ライフ』において、伏見氏がいみじくも指摘した背理。一人のゲイとして、ジェンダーに敏感に生きてきたであろう伏見氏ゆえの卓見は、しかし、その後もジェンダー論のアポリアとして、越えがたき壁となっている。 欲望の肯定が同時に差別の肯定であり、差別の否定が同時に欲望の否定であるのだとして、ならば我々がとりうる、またとるべき選択肢とはなにか。 『プライベート・ゲイ・ライフ』から20年、あらためて伏見憲明氏に話を聞く。セクシュアル・マイノリティーの現代史、またそれを取り巻くメディアや言説の変遷、そして、いまだ越えがたきジェンダーという背理について。倫理と快楽のアンチノミー、その外側へと続く隘路はここにある。 1年を締めくくるに相応しい、珠玉の三万字―― (2011年12月14日/新宿二丁目・BAR「エフメ

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    okakao 2012/11/26
  • 須長史生 ~コイトゥス再考#25~ ハゲ学のススメ・前編 「なぜハゲを隠したらいけないのか」

    2012年4月18日。その日、世界中の悩める男たちが歓喜に沸いた。 〈東京理大チーム、毛の生える幹細胞移植で無毛マウスが発毛〉 報道が伝えるところによれば「東京理科大学などの研究チームが、マウスを使った実験において幹細胞の培養による毛包の移植が成功したことを、英科学誌ネイチャー・コミュニケーションズに発表した」とのこと。幹細胞、毛包と、見慣れぬタームが並んでいるが、要するに、往古の昔より男たちが抱き続けてきた積年の悲願「ハゲの完全克服」を可能とする技術が、満を持して誕生したということだ。 研究チームは10年程度を目標に人への応用も実現したいと話しており、また大々的に報じられた背中に毛を生やした無毛マウスの写真を見るに及んでも、期待値はかなり高い。神が人に与えし「ハゲ」というスティグマは、とうとう科学の叡智によって超克可能なものとなりつつあるのだ。 ……と、やや前のめりに語ってきたが、欄は

  • 宮台真司 -コイトゥス再考- 泥沼のマスキュリニティ

    巷間しばしば耳にする「最近の若い男は男らしくない」といった類いの言葉は、つとにご存知の通り、今日、初めて語られだしたものではない。この手の言説は戦後一貫して、間断なく、再生産され続けており、あるいは「男らしくない」という語りは、歳上の男が歳下の男を揶揄する際の、一つのクリシェであるとさえ言える。ただし、この点を差し引いてなお、昨今の若い男は、どうやら例外的に「男らしく」なくなっているようなのだ。 日における男性学の草分けである伊藤公雄氏によれば、近代的な「男らしさ」とは「権力志向・優越志向・所有志向」という三つの志向によって特徴づけられると言う。同時に伊藤氏は、近代以降の社会の歪みの大部分が、この「男らしさ」に起因するものだと指摘する。極端な物言いにも思えるが、その主張にはなかなかに説得力がある。男たちは「男らしさ」のために、もがき、苦悩し、傷付け、また傷付けられてきた。より直裁に言うと

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    okakao 2012/04/25
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