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社会や思想の枠組みが揺らぐ時代、人々は前向きに逃げたり、自身の立ち位置をずらしたりして、新しい創造や取り組みへ向かおうとしている。そんな21世紀における「逃走」のあり方について、『逃走論』(1984年)の著者で批評家・京都造形芸術大教授の浅田彰さん(60)に話を聞いた。 ◇ 80年代は消費社会・情報社会が訪れ、新しいライフスタイルが次々と提案されるなか、旧来の「家族」「男らしさ/女らしさ」といった価値観が変化しつつありました。 背後には重厚長大型から軽薄短小型に、定期雇用型から不定期雇用型に、という資本主義の変化がある。ただ相変わらず古い価値観やアイデンティティーに固執する人々も多い。68年以後の新左翼運動さえ、自己の「総括」にこだわり、72年の連合赤軍事件のような袋小路に入ってしまった。それくらいなら、資本主義を半ば肯定しつつ、そんなパラノ(偏執)的な鋳型を捨てて、スキゾ的(分裂)に逃走
宝塚ファンの一人としてここ数日葛藤している。 別に黒塗りが無くなったって困らないでしょ、とのブコメをちらほら見るが私は…私は…どうしたらいいのだろうか。 実は宝塚には黒塗りの文化がある。 お芝居の中で黒人役がある場合、タカラジェンヌはドーランで肌を黒く塗り黒人に扮する。代表的なのは『風と共に去りぬ』のマミー役だ。宝塚において『風と共に去りぬ』というのは『ベルサイユのばら』と並ぶ古典演目で、何度も何度も再演されてきた大切な作品だ。しかし、いくら名作であっても今現在のポリコレ基準で考えるとアウトになるんだろう。 つい最近も、花形スターが黒人役をやる演目があった。「うちの黒塗りは笑いにしてるんじゃなくてカッコイイと思ってやってるんだからいいんです」という理屈は通じるのだろうか?それって傲慢じゃないのか。 これが他所の劇団ならば、黒人の役者を引っ張ってくればよいのだろうが、ご存じの通り宝塚は大半が
顔面を塗ってアジア人のフリをして、黒人差別発言をするエディー・マーフィー。ただこれは「黒人だと養子の貰い手が少ないから俺が父親になってこの子を育ててやる」という意味も含まれる。 大晦日の『笑ってはいけない』で、顔を黒塗りしてエディー・マーフィーのコスプレをするギャグが議論になっているけど、俺もあのギャグは問題だと思っている。しかしあの議論には大事な観点が抜けていると言わざるをえない。 その観点とは… 顔面ペイントで他の人種のフリをするのってエディー・マーフィーの持ちネタじゃん! どうしてこの観点が抜けているのかというと、それはもちろん関係無いからだ。そしてもう一つ大事な原因がある。それはみんなエディー・マーフィーのことをすっかり忘れているということだ。 『星の王子 ニューヨークへ行く』のエンド・クレジット。劇中気づかなかった人もエンド・クレジットで「あの白人はエディー・マーフィーだったのか
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