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2009年6月2日のブックマーク (2件)

  • 内定が出た途端自分は社会のすべてを理解しているというような喋り方をし始める友人 - 諏訪耕平の研究メモ

    内定をもらった友人に殴られた これは大変面白い。内藤朝雄は「社会では通用しない」をことあるごとに持ち出してくる父親を指して,父親が言う「社会」とは父親自身だったと述べてますが,この友人も同構造ですね。要するに結果論なんです。社会というのは静的なものではないので,「社会とは何か」に答えられる人は恐らく世の中に存在しないか,いたとしてもごく少数なはずなんですよね。しかし,「社会では」「社会人たるもの」という発言はそこかしこで見られます。彼らが言う「社会では通用しない」というのはイコール「俺には通用しない」ということなんですよ。 こういうすりかえは実は多くの場面で見られます。例えば,保育所に関する問題では多くの保護者の方が「子どもにとってどうなのかが一番大切」と言いますが,これは実は子どもを隠れ蓑にして自分の意見を通そうとしています。政治家の言う「国民が納得しない」も言うまでもないですが「俺は納

    内定が出た途端自分は社会のすべてを理解しているというような喋り方をし始める友人 - 諏訪耕平の研究メモ
    okoppe8
    okoppe8 2009/06/02
    だから「世間が認めても俺は認めねえ」という言葉の清々しさが際立つのです。
  • ■ - 狂童日報

    型福祉と構造改革の野合についてさらに補足。 私の主張は、ここで散々検討してきた「小さな福祉国家」という日の世論は、官僚主導型で企業・家族福祉に依存する日型福祉の伝統を温存する形で、「構造改革」が推し進められてきたことによって形成されてきたということである。 構造改革は終身雇用・年功序列を(偏った形で)解体してきた一方で、企業の外部におけるセーフティネットの公共化の道筋をまるで考えてこなかった。むしろ「骨太の方針」などと、社会保障の歳出を抑制する方向性を高く掲げてきた。せいぜい民間企業の活力とNPOによる社会保障という、アメリカですら健全に機能していない、ほとんど非現実的で国民もまったく望んでいない構想が無邪気に語られるだけであった。 そして構造改革の主導者たちは、日型福祉が依然として強固に機能していることを、どこかで前提にしていた。それは日貧困や格差が問題化しはじめた2005

    ■ - 狂童日報