タグ

ブックマーク / mubou.seesaa.net (87)

  • 息子さんを見ていて、「優しさ」の根っこは他人の嬉しさに対する共感なんじゃないかなあ、と思った。: 不倒城

    当たり前の話なのかも知れないけど。 息子さんは、結構厳密に成功体験・失敗体験の学習をしている。つまり、「こういうことをすると怒られる」「こういうことをすると喜ばれる/褒めてもらえる」ということをいちいち記憶しているように見える。 で、最近息子さんが「気遣い」的な行為をある程度出来るようになった。 例えば奥様がテーブルに足をぶつけて痛がったりしていて、私が「ママ痛がってるよ?」とか誘導してやると「まま、いたいいたい、ないないよー」などといいつつ慰めたり背伸びをして頭を撫でたりする。抱きつくこともままある。 多分、この時の行動選択の基準は「自分がされた時嬉しかったこと」なんだと思う。単なる想像だけど。 で、奥様が「優しいねー」とか褒めるとにへらーーと喜ぶ。人が痛がっている横できゃっきゃ飛び跳ねている。 で、次から、特に誘導がなくても、似たような状況では自分から慰めにいく。たまに誤解して全然痛く

  • RPGのラスボスは「全否定対全否定」という構図で意外と十分なんじゃないか、と思った: 不倒城

    RPGのラスボスについての一意見。一言で言うと、「ラスボスの設定とか、下手にひねるくらいならゾーマ様みたいな完全悪の方がいいんじゃね」という言葉になる。 あんまり具体的な名前を出すとカドが立ちそうだな。いやまあゾーマ様については出てしまったが、後は一般論ということで。 例えばRPGで、敵の大ボスについて色んな「背景」が語られることは多い。立場とか、出自とか、好きない物とか口癖とかウボァーとかそういうアレだ。 で、そういった中で、「ただ悪いだけのヤツではない」という演出が為されることは結構ある。例えば悲惨な過去があったりとか。陰惨なトラウマがあったりとか。そういった様々な事情が、劇中で語られることは割とある。 キャラクターとしては、それでよい。劇中、様々な形で「敵の大ボス」に肉付けがされていく。キャラクターとしての厚みが増していく。ただ、この際、大ボスを「単純に悪いヤツ」でなくすということ

  • とある局の放送作家の人に愚痴られた話と、テレビ番組制作者のジレンマ。: 不倒城

    一応ブログに書く許可を取ってはいるが、詳細は色々とボカす。 私の昔の知り合いで、いわゆる放送作家をやっている人がいる。彼に新春早々愚痴られた。 放送作家というと大仰だが、要するにテレビ番組の構成や脚を決める人であり、実際はディレクターの仕事もやっているそうであり、更に言ってしまうと何でも屋(これは彼自身の言葉を借りている)である。ディレクターをやっているなら別に肩書きはディレクターでいいんじゃねえかと思うのだが、敢えて「放送作家」を名乗るのは、良く分からないが彼の方針であるらしい。名刺に何と書いてあるのかは知らない。 で、何と愚痴られたのかというと、基的には上司に対する不平であるのだが、その内容が面白かった。 何でも、「最近色々とうるさいから、インタビューをなるべく編集するな」と言われたらしいのだ。 かなり以前からWebでは、例えばドキュメンタリー番組における「インタビューに対する編集

  • 結婚に不満がない男が、「結婚して変わったこと」をミもフタもなく書き連ねてみる。: 不倒城

    最近、どうも「結婚のデメリット」ばかりをあげつらう記事を見る機会が増えた、ような気がする。 そもそも結婚なんてメリットデメリットでするものじゃないだろうとは思うけれど、確かに結婚をすることで得られるもの、結婚をすることで得にくくなるものがあるのは確かだろう。しかし、どうもWeb界隈では「不満・不幸・不平」の方が注目を集めやすい様で、いまひとつ評価が偏っている様な気がする。結婚で得られるいいこともたくさんあると思うのに、それが目に触れなくなってしまうのはとても勿体無いと思う。こういうスレとか見ていると特に。 その為、「結婚に何の不満も持っていない男性」という立ち位置で、「結婚をして何が変わったか」「何は変わってないのか」というのを個人的に書くエントリーというのもあっていいのではないか、と思った。 まあ、私の結婚自体5年以上前の話なので、あやふやになっている部分もあるかも知れないが。ただしこれ

  • 「あなたはターゲットじゃないですよ」と言われる時。: 不倒城

    メモ的に。 Webが日常的なものになって以降、「マスマーケティング(一般的な、広い範囲のユーザー層を狙った商法)は次第に難しくなっており、ニッチを確実に狙ったマーケティングやCRMの活用が重要になりつつある」、という議論は割と一般的なものになっている様な気がする。「マスマーケティング web」でぐぐるだけで、この手の議論はごろごろ出てくる。こことかこことか。 上の議論が正しいのかどうかは、ひとまずおく。ただ、上の議論が正しいものと考えて販売戦略を練っている人、というのは、おそらく割とたくさんいるんじゃないかなあ、と思う。 乱暴に概括してしまうが、「皆に浅く受けるものより、一部の人を確実に捉える」もの作り、売り方にシフトしようという動きは、今では珍しいものではない筈だ。 さて。上記の動きはまあ妥当なものだとは思うのだが、これをユーザー視点で捉えた議論は意外と見ない。上の動きって、ユーザーから

  • エンディングの内容などどうでもいいのだーー!: 不倒城

    とまでは言い過ぎかも知れないが。 ■エンディングで震えるほど感動したゲーム レスの流れを見ていると、根的な部分で微妙に話がかみ合っていない部分がちらちら見受けられる様な気がしてちょっと興味深い。 多分、「EDに対する感動」という話題において、次の二つがごっちゃになっている部分があると思う。 1.ゲームのフィナーレ、エンディングの内容に対する感動 2.「あるゲームをクリアした」ということ自体に対する感動 この二つは勿論無関係ではなく、双方が双方を補完している部分もあると思うけど、根っこのところでは多分全くの別物だ。 1番の感動は、要するに小説を読むことで得られる感動、映画を観ることで得られる感動と同質のものだ。視聴してきた物語の見事な帰結、素晴らしいフィナーレ。RPGやアドベンチャーゲーム、特にここ十年くらいのRPGは、こちらの出来で評価されることが少なくない。 2番の感動は、出来合いの言

    orbis
    orbis 2009/04/03
  • レトロゲームが大好きだけど、「今に比べて昔は良かった」とは全然思わない: 不倒城

    今回、完全にひとり語り。ご容赦頂きたい。 私はレトロゲームが好きである。 ファミコンやスーパーファミコンやマークIIIやPCエンジンやメガドライブやF2やF3やバブルシステムのゲームが大好きである。古ぼけた旅館の一角にある半分ぶっ壊れた様なテーブル筐体や、デパートの屋上にひっそりと置いてある錆かけた体感ゲームが大好きである。 多分、一般的にいえば「懐古」の部類なんだろうと思う。私にとっては全然懐古じゃないんだけど。 ただ、何故だろうな。私は、「昔のゲームは楽しかった」という言い方には全然共感しないのだ。「今のゲームより昔のゲームの方が面白い」という言い方には近寄りたくもないのだ。今のゲームが好きじゃないからって、そこで昔のゲームを引き合いに出すなよこの野郎、とか思ってしまうのだ。 頭の中を漁ってみた。多分、理由が三つくらいある。 ・面白いゲームも全然面白くないゲームも全部含めて「レトロゲー

    orbis
    orbis 2008/09/13