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*checkとcultureに関するorzieのブックマーク (8)

  • http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1047.html

  • Amazon.co.jp: ザ・ファイナル・アカデミー・ドキュメンツ [DVD]: ウィリアム・バロウズ: DVD

  • 寺田寅彦 丸善と三越

    子供の時分から「丸善(まるぜん)」という名前は一種特別な余韻をもって自分の耳に響いたものである。田舎(いなか)の小都会の小さな書店には気のきいた洋書などはもとよりなかった、何か少し特別な書物でもほしいと言うと番頭はさっそく丸善へ注文してやりますと言った。中学時代の自分の頭には実際丸善というものに対する一種の憧憬(どうけい)のようなものが潜んでいたのである。注文してから書物が到着するまでの数日間は何事よりも重大な期待となんとも知らぬ一種の不安の戦いであった。そしてそれが到着した時に感じたあの鋭い歓喜の情はもはや二度と味わう事のできない少年時代の思い出である。 東京へ出るようになってからは時々この丸善の二階に上がって棚(たな)の書物をすみからすみへと見て行くのが楽しみの一つであった。ほしいはたくさんあっても財布(さいふ)の中はいつも乏しかった。しかしただ書棚の中に並んでいる書物の名をガラス戸

  • Hang Reviewers High / 新現実 Vol.1

    先日、SFマガジン6月号で連載が終了した宇野常寛「ゼロ年代の想像力」の連載分をすべて一気読みした。彼の展開する議論には、僕にとって賛同できるいくつかの部分と、そうでないいくつかの部分がある。それについて、まず一点を僕が思う状況を整理しながら考えてみたい。 彼の主張は、まず「90年代の『引きこもり』」があり、2000年代前半に「エヴァ」的感性の延長線上、あるいは残滓であるセカイ系があり、そしてゼロ年代においては 社会の既存のルールが壊れていることは「当たり前のこと」として受け入れ、それを自分の力で再構築しようといこうとする という、「DEATH NOTE」の夜神月に象徴される「決断主義」が来るという一連のフィクションの流れがあったという。 僕は現在、彼の言う「決断主義」のようなものがゼロ年代のフィクションとして大きく特徴付けられるという主張に異論がない(なお参考までに記しておくと、彼の主張は

  • リスニング・ポイントの爆心地~耳を鍛えよ!(文:大友良英)

    Improvised Music from Japan / Yoshihide Otomo / Information in Japanese 音楽に世界を解放する力なんてあるのだろうか? だいたい何を解放するのか? 音楽はかつて運動だった。連帯だった。横ノリのヴァイブレーションに反戦と反体制を謳歌した60年代末。縦ノリのビートに体を痙攣させ社会に唾を吐いた70年代末。20世紀後半の始まりはジャズ、フォーク、ロックを含むサブカルチャーの存在そのものが政治的ですらあった。80年代に入るとウォークマンの登場とともに音楽が個の所有物になっていく。そこにあるのは横ノリの連帯でも、縦ノリの運動でもなく、個の嗜好をたよりに社会をサバイバルするオタク的な感性だった。音楽から政治の匂いは消されて行く。陰影ある歌謡曲はこの時ほぼ死滅する。さらに時代は進む。90年代にはいると、強大なPAとサブウーハーにより、

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  • 暴論!「サブカルチャーはサブカルチャーへの憎悪から生まれた」 - POP2*5

    東京大学「80年代地下文化論」講義 作者: 宮沢章夫出版社/メーカー: 白夜書房発売日: 2006/07/18メディア: 単行購入: 1人 クリック: 57回この商品を含むブログ (123件) を見る■宮沢章夫『東京大学「80年代地下文化論」講義』(白夜書房)を読む 先日発売された新刊をひとつ紹介する。これは劇作家の宮沢章夫氏が、2005年に東京大学教養学部で一年にわたって行った、表象文化論のゼミの中の「80年代文化論」というテーマについての講義録である。元々、東大教養学部は、野村万斎氏や青山真治氏といったカルチャーの最前線にいるクリエイターを迎えた実践的な講義をやっていた。監修者は演劇の研究者として知られる方で、宮沢氏は「初めての劇作家」として講師に招かれ、おそらく当初は小劇場ブームなどを軸にした80年代論ということでの依頼だったようだ。だが、宮沢氏の講義は結果、演劇論に止まらず、む

    暴論!「サブカルチャーはサブカルチャーへの憎悪から生まれた」 - POP2*5
  • Olive小沢健二連載最終回(1997/12/18)

    僕の友人で、二人姉妹なのに、生まれてから一度も親に、「お姉ちゃん」と言われたことがないという人がいる。二人とも「何々ちゃん」と名前を呼ばれるだけで、そうなると妹の方も、「お姉ちゃん」とは呼ばなくて、名前で呼び合うことになる。そう言えば彼女にはいわゆる「お姉さんらしい感じ」はない。「お姉さん」「お兄ちゃん」と呼ばれ続ける事は、その人の性格に影響するらしい。「兄」とか「弟」とか言うのは、人が持って生まれた資質ではなくて、社会的に規制された結果、というか周囲がそれを強要してるのである。 人は分ける。上と下。右と左。陰と陽。善と悪。とにかく分けたがる。自分自身さえも分けてしまう。不良か優等生か。運動神経がいいか悪いか。人間嫌いか社交家か。完全にどちらかである人なんて絶対にいなくて、僕らは混然とした存在なのに、混然を受け入れるってのは難しいから、面倒くさがりの脳は、あるいは機能は、それ自体をあるがま

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