休日は嫁とセクロスしまくりなんだろ
昨年12月にNGT48山口真帆(23)が新潟市内の自宅を男2人に押しかけられて暴行された事件で、NGT48を運営するAKSの松村匠運営責任者兼取締役(56)が14日、都内で取材に応じ、一連の騒動を謝罪した。 主な一問一答は以下の通り。 「このたびの件に関しましていろいろと皆様に迷惑ご心配をおかけしたこと、メンバーやファンの方々に不安な思いをさせてしまったことをおわび申し上げます」 -NGT48劇場支配人に早川麻依子氏、副支配人に岡田剛氏が就任した 「早川が女性ということで、女性という立場を理解し、NGT48というグループを盛り上げてもらいたいという思いから彼女を起用した」 -事件から初めてメディアの前に出るのに時間がかかった 「おわびを申し上げるしかない。まず警察の捜査状況を鑑みていたというのが理由です」 -事件の情報が交錯している 「警察の捜査内容に関わることなので、コメントは差し控えさ
昨年(2018年)9月末、札幌地裁で争われた労働事件で、非常に重要な判決が出されたことをご存知だろうか? 冠婚葬祭業を営む最大手のベルコが、労働組合を結成した労働者を「事実上」解雇したことを受けて、労働者側が訴えを起こした裁判で、裁判所は解雇を認める判決を下したのだ。 労働者が労働組合を結成したことを理由に、会社がその労働者を解雇することは、「不当労働行為」という違法行為である。もしこれが許されてしまうなら、残業代不払いやパワーハラスメントなどの告発は、簡単に封じ込められてしまうだろう。 だが、今回の事件では、それが裁判で認められてしまった。そこには重大な問題を孕む「からくり」がしかけられていたのだ。 この事件は少々問題が入り組んでいるが、日本企業で働く多くの会社員にとって非常に重大な意味を持っている。 政府は今後、「雇用」を減らし、業務委託契約への切り替えを大々的に進めていくというが、同
作家 高橋弘希さんの寄稿 朝日新聞には、A賞受賞時にもエッセイを寄稿した。一般の読者は知らぬと思うが、とゆうか私も知らなかったが、A賞を受賞すると各新聞紙へのエッセイ寄稿が慣例である。 しかし「私がA賞を受賞して」というテーマで、何紙にもエッセイを書くので、すぐにネタが尽きる。結果として本紙に寄稿したエッセイは「私がA賞を受賞して」ではなく「私が竜王を諦めた理由」になってしまい、本紙文化部からは完全にひんしゅくを買ったものと思っていた。 しかしそこは懐の広い本紙である。この度、再びエッセイの依頼がきた。一月初旬の掲載なので、干支(えと)について記せ、あるいは亥(いのしし)年なので猪突(ちょとつ)猛進をテーマにしても可、とのことだ。 亥と言えば、私は過去に秩父で猪鍋(ししなべ)を食べたことがある。豚肉とは違い、脂身に軽さがあり、しかしながら淡泊とも言い難い芳醇(ほうじゅん)な味わいがあり、大
前回のつづき。 来る途中の電車の中で、酒田の見どころを探していると「土門拳記念館」があった。 駅から少し離れていて、タクシーを利用。 記念館の暖かい室内に入って、一息ついた。 土門拳(1909~1990) はここ酒田市が郷里で、自身の7万点の作品を市に寄贈。酒田市はそれに応えて土門拳記念館を1983年に完成させている。 入館料は一般430円。特別展開催時は800円。 このときは常設展の一環で「かおかたち土門拳のまなざし」「秋田点描」などが開催されていた。 主展示室では仏像スターが勢揃い。 撮影可で、仏像との記念写真を沢山撮ってしまった。 土門拳も、仏像と女優のツーショットを撮っていた。 愛用されていたカメラ。 主展示室(奥)から企画展示室へ向かう廊下ギャラリー。 そこから見た外の世界。 そこには、イサム・ノグチの手による「土門さん」があった。 土門は、写真集「風貌」の一人にイサム・ノグチを
独自の理論で日本古代史に大胆な仮説を展開した哲学者で、国際日本文化研究センター(日文研、京都市西京区)の初代所長を務めた文化勲章受章者の梅原猛(うめはら・たけし)さんが12日、死去した。93歳だった。 1925年、仙台市生まれ。京都大学哲学科卒業後、立命館大学教授や京都市立芸術大学長などを歴任した。 60年代から日本文化研究に傾倒し、72年に奈良・法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮めるために建てられたとする「隠された十字架―法隆寺論」を出すと、73年には万葉歌人の柿本人麻呂は流刑死したとする「水底(みなそこ)の歌―柿本人麿論」を刊行。通説を覆す独創的な論は「梅原古代学」と呼ばれ、大きな反響を呼んだ。 80年代前半には、日本文化を総合的に研究する中心機関の必要性を訴え、当時の中曽根康弘首相に直談判するなど政府関係者を説得。日文研の創設にこぎ着け、87年に初代所長に就任した。 社会的発言も多く、日本人
このnoteは日本の大学を卒業した筆者が、コネクションゼロの状態から、アメリカの大学への留学を挟まずに、NASAへの就職を果たした過程を記録したものです。これからNASAを目指す人、また夢を叶えようと努力している人の考え方のヒントになれば幸いです。 一度きりの人生をかけてこれをやる2012年の夏、NASAの1機の探査機が火星に着陸した。キュリオシティという名のその白いローバーは、胴体からまっすぐに伸びた首の先に大きな目玉がついた頭を持ち、足についた6つの頑丈な車輪で火星の荒れ地を走る。長い腕を伸ばしドリルで岩石を削り、それを体の中に入れその場で調べる。これまでのどんな探査機とも異なるその姿は、僕の目にはまるで生き物かのように写っていた。 当時僕は東北大学に通う大学院修士課程1年生の学生で、休日のエアコンの切れた蒸し暑い研究室で一人、実験の待ち時間にパソコンの画面に釘付けになっていた。キュリ
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