太平洋戦争が終わって六十年、自ら戦争を体験し、その苦しさ、悲惨さを知っている人々は もはや年老いて少なくなってしまっています。 20世紀は戦争の時代といわれているがごとく、日本では昭和20年まで常に戦争の影響 を受けた生活を強いられていたのです。冷徹な国家の意思のなかで、常に苦労を強いられる のは一般国民だったのでした、この時代に生きてきた人々にかかわる物品、資料を収集していると 一つ一つのものが、戦争というものを一人一人の視線から語ってくれるように思えます。 徴兵され召集された一般の兵士は生きて帰ることを願いつつも命令を遂行するため頑張り、 国内銃後の人々は耐乏生活をしいられ遂には空襲までうけるに至りました。 この時代の物に触れるにつけ、たかだか六十数年前の日本にこんな苦難の歴史があったのかと 思いをめぐらせてしまいます。 そして大日本帝国という異常な国家の中でこれら
婦人団体で一番早くからあったのは愛国婦人会で、明治34年軍部や近衛篤磨らの後援をえて 佐賀県の東本願寺派の僧の娘、奥村五百子が発起した兵士やその家族の救護活動を趣旨とした 官制団体であった。緑の上っ張りに愛国婦人会と白く染め抜かれた紫の襷がトレードマークで、会員 数は昭和12年末には338万人に達していた。 昭和7年には大阪の主婦安田せい、三谷英子らの奉仕活動からおこった、大阪国防婦人会ができ その後東京にも国防婦人会が発足、これらを軍部が協力し統合して昭和9年、大日本国防婦人会が できた。 また大日本連合婦人会は、昭和6年全国の婦人会、母の会、主婦の会など文部省の監督指導の のもとにある6000余りの団体を集めて発足した。 これら三つの団体は、日中戦争がはじまってから、軍人援護、遺族の救護活動、貯蓄奨励、生活 の刷新などほとんどおなじ運動をするようになり、会の勢力拡大
昭和6年の12月13日の朝日新聞(大阪)・・『渡満の井上中尉婦人、紋服姿で端然自刃す 「死んで皆様をお守りします」と健げな遺書を残して』 数え年21歳、新妻、井上千代子が、夫の出征前夜に「後顧の憂いなく、お国の為に働いて下さい」と自刃したのです。何ともやり切れぬ話ではあるのですが、これには別の意味も合ったろう・・(そう考えるのが自然)と思うのですが、しかし、一躍、英雄になった井上中尉は、予定通りそのまま満州へ出征していきます。(翌年夏には、この人は平頂山事件・・住民3000名虐殺事件の指揮官の1人となります) 今の二十歳前後の女性が、いかに思いつめようとも、こういう行動をとるかどうか・・遺書にはこう書かれていたそうです。「私の御主人様、私嬉しくて嬉しくて胸が一杯で御座います。何とお喜び申しあげてよいやら、明日の御出征に先立ち嬉しくこの世を去ります。何卒、後のことを何一つ御心配下さいますな」
先日、本田由紀「教育再生会議を批判する」をめぐって:学力は低下しているのか?という記事を掲載したところ、多くの方が当ブログを訪問してくれました。 とはいえ、たくさんの人に見てもらえたのはよかったのですが、実際の内容は本田由紀氏の議論を一方的に紹介するものであり、内容に公平性に欠けるところがありました。 というのも、本田氏が学力低下は起こっていないという立場に立つのに対して、学力は低下していると主張している人もまた存在するからです。そのような人の中には、「ゆとり教育が原因で学力低下が起こった」と速断している人ももちろんいます。でも、一定規模の調査を行った結果として、学力は低下していると結論づけている人たちもまたいるのです。というか、調べたらいました。 そこで今日の記事では、学力低下を結論づけている2つの調査内容を紹介することで、本田氏の議論を紹介した先日の記事に対して、一応のバランスを取ろう
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