昭和50年代、私はある週刊誌のグラビアで、北海道から鹿児島まで特急列車の食堂車従業員を取材したことがある。国鉄と日本食堂の協力を得て、北海道の特急「おおぞら」から「はつかり」「白鳥」「雷鳥」「はやぶさ」などを乗り継いで鹿児島まで取材を続けた。 当時の特急にはほとんど食堂車があり、「ひばり」「あいづ」「はつかり」「雷鳥」「有明」といった都市間の本線を走る列車はもちろん、ディーゼル特急の「おおぞら」「おおとり」「やくも」「まつかぜ」「くろしお」などもほぼ全列車に食堂車が連結されていた。 今思えば、この時代が列車本数からしてみても食堂車全盛の時代だったのであろう。それから数十年、食堂車はどのような過程を経て定期列車から消えてしまったのであろうか。 戦前から洋食フルコースが 日本の食堂車の歴史は、1899(明治32)年に山陽鉄道(現在のJR山陽本線)と官設鉄道(のちの国鉄)乗り入れの急行列車に連結