日記今年一年の幕開けに私はこんなエントリを書いた。 自分が被害者になれないフェミニズムなど要らない。 私がまきつけたフェミニズムという経典の端々からもれ聞こえる言葉は「被害者」となるか「加害者」となるかで、まるで聞こえ方が違う。当事者として門をくぐれば、両手を広げて笑顔で歓迎するだろう。被害者として戸を叩けば、かくまってくれるだろう。けれど、傍観者として生きた数十年が私の枷となり、加害意識の中で滑り込むとき、私は耳をふさがねばならない様々な言葉がある。 私の今後の立場を予言するような内容だと思う。今、【レポート】「上野千鶴子vs澁谷知美「男(の子)に生きる道はあるか?」への批判があがっているが、私はそこでの参加者として内容を楽しんだ側の人間だ。 ずっと気味が悪かったのが、妙な「内輪的なれ合い」の空気と、会場から聞こえる「笑い」だった。会場の聴衆が見えないため、その「笑い」の状況が見えないの