法然、『選択本願念仏集』 途中から少し読んでみる。わからないなりに、声に出してみると何となく大意が通る。歯切れがよくて気持ちのよい文である。 そもそも念仏は声に出すことが肝要なのだから、この専修念仏の理論書も声に出して読まれるべきなのは当然か。 そういえば奇妙なことだが、言文一致運動以前の書物は一般に声に出して読まれることを前提としているように思える。むしろ言文一致することで、文章は発音の身体性を次第に失っているのではないだろうか。なぜだろう。 〔追記〕 ある意味、単純なことで、日本語の文語は七五調によらずとも「歌」と近いので、声に出して歌われることを前提としているのだろう。 とすると、日本語の場合、「話し言葉」と「歌=エクリチュール」のあいだに断絶があることになるのか。言語学でなんといわれているのかは知らないが。 ルソーの『言語起源論』だと、歌と話言葉が等根源的になっている。そしてルソー