タグ

セカイ系に関するpochi82のブックマーク (5)

  • ガンスリンガー・ガールの《セカイ》 - 博物士

    http://d.hatena.ne.jp/hajic/20050419 の問題提起を受けて、の続編。次のような書簡が横濱雄二(id:kuroyagisantara)氏より送られてきたので、これに応答する*1。 kuroyagisantara “GUNSLINGER GIRL”のテーマは共同体ではなかろうか。 【作の構造】 少女達は兵士になる前に予め共同体から排除されている。最初に共同体の原初形態としての「二人」=フラテッリ(複数形)が少女達に示され、事態の展開に合わせ、それぞれのフラテッリがどのような軌跡で二人以上の多数による共同性へ向かう(あるいは向かわない)のかが描かれてゆく。公社と五共和国派の闘争も同様に共同体の理念をめぐるものと理解できる。一方で担当官達は公社の共同体の理念に対し、自分の周囲の仲間性=パトリアの意識を強く持つ(クローチェ兄弟にとっての妹)し、その意識と公社の理念

    ガンスリンガー・ガールの《セカイ》 - 博物士
  • セカイ系とは 一般の人気・最新記事を集めました - はてな

    「ぷるにえブックマーク」の管理人、ぷるにえ氏(id:tokataki)が、2002年10月下旬から使い始めたのが始まり。 11月1日 ●「セカイ系」のまとめ ・ぷるにえが一人で勝手に使ってる言葉で、大した意味はない。 ・エヴァっぽい(=一人語りの激しい)作品に対して、わずかな揶揄を込めつつ用いる ・これらの作品は特徴として、たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる傾向があり、そこから「セカイ系」という名称になった インターネット上で初めてこの言葉を使用したのは、ぷるにえ氏と交流のあった「しゅうかいどう」管理人、しゅうかいどう氏であり、10月30日のことであるとされる*1。 10月30日(水) 今日の検索ワード : ゴールドマッスル 同人誌 (1件のページが見つかりました ←つまりうちだけ) 昨日の夜は、西尾維新をテーマにして 「セカイ系とは何か」 の講義を受けました。

    セカイ系とは 一般の人気・最新記事を集めました - はてな
  • なぜ「デスノート」はセカイ系ではないのか(後編)「死神」は内部を再生する - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    道具の呪術性(フェティシズム) さらにセカイ系の「戦闘美少女」の特徴に、道具性がある。「銀河鉄道999」のメーテル、「攻殻機動隊」の素子、「最終兵器彼女」は機械であり、「エヴァンゲリオン」のレイはクローンである。 その他「戦闘美少女」は兵器で武装している。 「戦闘美少女」が道具であることは、斎藤のいう中性性やヒステリー性に繋がるだろうが、さらには道具には外部を開くという力がある。 車を飛ばすスピードの快楽、PCを操る快楽、小さな子供が自転車を飛ばす快楽とはなにか。機械とは身体の拡張であると言われる。たとえば車は速さ、力を拡張する。PCは頭脳を拡張する。ネットはコミュニケーション速度を拡張する。 この拡張とは、外部環境の開拓である。偶然的、混沌の外部環境を、フォーマットし内部環境(グレイゾーンへ)へと転換する。 このようにテクノロジーを使う快楽は、機械化され拡張された身体がいままで到達し得な

    なぜ「デスノート」はセカイ系ではないのか(後編)「死神」は内部を再生する - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • 純粋略奪の快楽 - なぜ「デスノート」はセカイ系ではないのか(前編) 「戦闘美少女」は享楽する

    映画「デスノート」の虚構としてのリアリティ 映画「デスノート」を見た。マンガはコミックで読んでいたが、映画化はむずかしいのではと思っていた。名前を書くことで人を殺せる死のノートを手に入れるとどう使うかという「正義とはなにか」という大きなテーマがあり、マンガのおもしろさは心理の葛藤にある。 しかし映像で表すと、「ノートに名前を書く」→「突然、人が苦しみだして死ぬ」。役者が突然苦し倒れる映像は、実写ヒーローもの程度にさびしく、リアリティがない。実際にみてほんとにそのようだった。また主人公月(ライト)などの心理表現の映像化はむずかしく、結局、悪魔的少年というわかりやすいキャラクターで描くしかなかったようだ。 唯一の救いはCGで描かれた死神デュークの存在である。そのCGがどれだけリアリティがあるかというよりも、仮にCGで描かれた死神デュークがいなければ、役者が突然苦し倒れるような虚構性はさらにサブ

    純粋略奪の快楽 - なぜ「デスノート」はセカイ系ではないのか(前編) 「戦闘美少女」は享楽する
  • なぜ「涼宮ハルヒの憂鬱」はセカイ系なのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「外部産出型」としてのセカイ系 「涼宮ハルヒの憂」の最終回を見たが、なかなかおもしろいかった。最終回の前半まで退屈が描かれ、突如クライマックスが訪れる。ボクは「涼宮ハルヒの憂」が「セカイ系」の構造があるといっていたが、最終回はまさにそのものの展開として終わった。 ボクは、「なぜ「デスノート」はセカイ系ではないのか」*1においてセカイ系を以下のように説明した。 ■セカイ系は、無理矢理にでもハルマゲドン(外部)を産出しようとする表現=「外部産出型」の系列にある。 ■外部産出型は、「内部/断絶(ファルス)/外部」の構造を持つ。社会(大きな内部)の閉塞感の中で断絶(ファルス)の存在が外部への道を開く。たとえば「デスノート」では断絶(ファルス)とはデスノートであり、外部とは死神界である。 ■「外部」とは、未知であり、なんの背景もなくただ不気味に殺戮にやってくる敵である。そしてこちらもなんのためら

  • 1