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ブックマーク / pikarrr.hatenadiary.org (3)

  • なぜ「デスノート」はセカイ系ではないのか(後編)「死神」は内部を再生する - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    道具の呪術性(フェティシズム) さらにセカイ系の「戦闘美少女」の特徴に、道具性がある。「銀河鉄道999」のメーテル、「攻殻機動隊」の素子、「最終兵器彼女」は機械であり、「エヴァンゲリオン」のレイはクローンである。 その他「戦闘美少女」は兵器で武装している。 「戦闘美少女」が道具であることは、斎藤のいう中性性やヒステリー性に繋がるだろうが、さらには道具には外部を開くという力がある。 車を飛ばすスピードの快楽、PCを操る快楽、小さな子供が自転車を飛ばす快楽とはなにか。機械とは身体の拡張であると言われる。たとえば車は速さ、力を拡張する。PCは頭脳を拡張する。ネットはコミュニケーション速度を拡張する。 この拡張とは、外部環境の開拓である。偶然的、混沌の外部環境を、フォーマットし内部環境(グレイゾーンへ)へと転換する。 このようにテクノロジーを使う快楽は、機械化され拡張された身体がいままで到達し得な

    なぜ「デスノート」はセカイ系ではないのか(後編)「死神」は内部を再生する - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • 純粋略奪の快楽 - なぜ「デスノート」はセカイ系ではないのか(前編) 「戦闘美少女」は享楽する

    映画「デスノート」の虚構としてのリアリティ 映画「デスノート」を見た。マンガはコミックで読んでいたが、映画化はむずかしいのではと思っていた。名前を書くことで人を殺せる死のノートを手に入れるとどう使うかという「正義とはなにか」という大きなテーマがあり、マンガのおもしろさは心理の葛藤にある。 しかし映像で表すと、「ノートに名前を書く」→「突然、人が苦しみだして死ぬ」。役者が突然苦し倒れる映像は、実写ヒーローもの程度にさびしく、リアリティがない。実際にみてほんとにそのようだった。また主人公月(ライト)などの心理表現の映像化はむずかしく、結局、悪魔的少年というわかりやすいキャラクターで描くしかなかったようだ。 唯一の救いはCGで描かれた死神デュークの存在である。そのCGがどれだけリアリティがあるかというよりも、仮にCGで描かれた死神デュークがいなければ、役者が突然苦し倒れるような虚構性はさらにサブ

    純粋略奪の快楽 - なぜ「デスノート」はセカイ系ではないのか(前編) 「戦闘美少女」は享楽する
  • なぜ「涼宮ハルヒの憂鬱」はセカイ系なのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「外部産出型」としてのセカイ系 「涼宮ハルヒの憂」の最終回を見たが、なかなかおもしろいかった。最終回の前半まで退屈が描かれ、突如クライマックスが訪れる。ボクは「涼宮ハルヒの憂」が「セカイ系」の構造があるといっていたが、最終回はまさにそのものの展開として終わった。 ボクは、「なぜ「デスノート」はセカイ系ではないのか」*1においてセカイ系を以下のように説明した。 ■セカイ系は、無理矢理にでもハルマゲドン(外部)を産出しようとする表現=「外部産出型」の系列にある。 ■外部産出型は、「内部/断絶(ファルス)/外部」の構造を持つ。社会(大きな内部)の閉塞感の中で断絶(ファルス)の存在が外部への道を開く。たとえば「デスノート」では断絶(ファルス)とはデスノートであり、外部とは死神界である。 ■「外部」とは、未知であり、なんの背景もなくただ不気味に殺戮にやってくる敵である。そしてこちらもなんのためら

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