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宗教と排他性に関するpolynityのブックマーク (4)

  • 宗教と価値の多様性は相容れないのではないか - 膨らまない話。

    多様性を尊重しよう、多様な価値があることを認めよう、っていうのはもう近年では疑問を抱くことも許されないような考え方だと思うが、その中に宗教まで含んだ場合はどうだろう。(数年後に読み返して考えると、多様性を認めない国や文化も少なくないというか勢力を増しているような。) 宗教というものは徹底すればそもそも多様な価値の併存を許さないものだと考えられ、もし多様な価値が等しく存在することを認めたなら実のところそれは宗教としてはもう終わってしまうんじゃないだろうか。突きつめれば共存することのできない文字通り不倶戴天の在り方だ。 「彼らの信仰も尊重しましょう」という寛容な姿勢は、別様に言うなら「そういう程度の低い土着の考え方もやっぱり尊重してあげないといけないよね」というような余裕をかましたゆるい態度であって、自分たちの信仰の絶対性において行動する人たちにとってそのような態度は信仰の形骸ですらなく全く意

    宗教と価値の多様性は相容れないのではないか - 膨らまない話。
    polynity
    polynity 2017/03/02
    「多宗教教」という宗教は、自身がフィクションであるということを自覚することによって、多様な宗教が存在することを認めています。 http://www.monotheism.jp/sutra/delusion.htm
  • 「私たちの教えこそが本物」という考えのない宗教、相対主義的な宗教というのはあり得るか - 膨らまない話。

    「私たちの教えこそが物、当に正しいのは私たちの教えだけ」と気で考えているのであれば、「奴らは間違っている、奴らはわかっていない」という他を否定する断定を避けることはできない。 ならば当然のこと諍いは起こるし果ては殺し合いにもなる。 それなのに「私たちの教えこそが物」という考えが少しもない宗教というのはおよそ考え難い。というかおそらく、全ての宗教が程度の差はあれそれぞれに「私たちの教えこそが~」と根底では思っている。「私たちが一番」、「正しいのは私たち」と口には出さずとも思っている。 でもまあそうじゃなかったら多分どの宗教もそもそもやってられないだろう。 優越性や普遍性や唯一性を言わない宗教というのはあり得るだろうか。相対主義的な宗教。 だが宗教というものが無上の教えを説くものであるとすれば、それがどのような教えであろうとも「相対主義的な宗教」という言葉はそもそも矛盾している。 もし

    「私たちの教えこそが本物」という考えのない宗教、相対主義的な宗教というのはあり得るか - 膨らまない話。
    polynity
    polynity 2015/12/03
    多宗教教は、「すべての宗教はフィクションであり、この宗教自身もまたフィクションである」という教義を持つ宗教です。 http://www.monotheism.jp/sutra/delusion.htm
  • 日本人の一神教ヘイトまとめ

    「一神教は排他的、独善的、不寛容でクソ」 「多神教は素晴らしい、とにかく素晴らしい」 と仰る方々の排他性について

    日本人の一神教ヘイトまとめ
  • 一神教の排他性について - 西野神社 社務日誌

    今月26日付の記事「世界宗教が手をとり合うことは可能か?」に付けた「コメント」の中で、私は次のように述べました。 『そもそも一神教の教典には、他宗教の排斥を積極的に勧めるようなことが書かれているのでしょうか。確かに、解釈の仕方によってはそのように解することができる部分もあります。しかしその一方で、教典には、協調や寛容を訴えている箇所も沢山あります。』 この日の記事では、私は文でも、文に付けたコメントにおいても、この文章の後者に相当する部分(つまり一神教で協調や寛容を訴えている部分)を取り上げ、世界宗教が手をとり合うことは充分可能であるということを訴えました。しかし、一神教にはこの文章の前者の部分(つまり他宗教の排斥を積極的に勧めていると解釈できる部分)が色濃くあるのもまた事実です。ですから、26日付の記事にホンダさんが付けて下さった『結局「排他的」なんじゃ?という印象が払拭できません…

    一神教の排他性について - 西野神社 社務日誌
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