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新宗教と輸血に関するpolynityのブックマーク (6)

  • 魂と権利の落としどころ - 地を這う難破船

    ⇒「いのちだいじに」教はてごわい - すべての夢のたび。 反応に感謝を申し上げたうえで、反応を拝見しての私の見解を。 (前略)まぁ「エホバの側に立つ」はもちろん釣りタイトルなんで、そこを云々されてもこちらに応答する言葉の用意がないのですが、そういったタイトルを使うことで非難を受ける可能性は織り込み済みで、しかし得る効果を考えて使っているということです。 ――ん? 『たとえどんなにエホバが間違っていようとも、私はエホバの側に立つ』エントリの趣旨を的確に表していると、読者としては思いますが。村上春樹スピーチの改変も適当と思います。「エホバの証人が間違っているか否かは問題ではない」ですよね。村上春樹も趣旨としてそう言っています。「正しい/間違っている」は問題ではない、と。「わかってやっている」的なエクスキューズは不要です。「不謹慎」をわかってやっていることは明白なので。 が、だからこそ、当該の輸

    魂と権利の落としどころ - 地を這う難破船
  • 「いのちだいじに」教はてごわい - すべての夢のたび。

    いいわけよりはじまる ぼくが「何かについて」のエントリを書く動機は、自分の中のもにゃもにゃしたよく解らないものを考えることでまとめてみよう、という部分が大きい。なので、書き上がった時点である程度ケリが付いてしまい、考えはまた別の「何か」に向かってしまう。熱を維持できないのです。まぁでも、即応答、だと無駄に熱くなりがちだったりするし、時間おいて冷めてから振り返って書くのもいいかなと。 今まで使ってなかった小見出しのスタイルシートをいじった。この文章では無駄に多用したいと思います。なんかかっこいいなぁと思ってたんですよね。 ぼくの「ブクマされにいく」文章は、普段のぼくの考えより幾分「強く」「派手に」「過激に」なるように意識して書かれています。そのほうが遠くまで飛んで刺さりますから。それと「明らかに狂っている」よりは「境目ギリギリ」くらいを狙ってコントロールして書いています。例えば“ニセ科学”の

    「いのちだいじに」教はてごわい - すべての夢のたび。
  • 魂の落としどころがどっかにあるはずなんだ、たぶん - 関内関外日記

    2009-03-15 エホバの証人と輸血の話 - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake 「エホバの証人と輸血の話」へのコメントとお返事 - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake たとえどんなにエホバが間違っていようとも、私はエホバの側に立つ - すべての夢のたび。 エホバの証人(ものみの塔)の輸血拒否をめぐる問題について、いろいろな意見などを読んでいろいろとつらつらと考えてみましたので、なんか脳から垂れ流してみたいと思います。 まず、俺はどう思ってるの? 新聞で親権停止で子供の命救ったって記事読んだときの感想は、「やればできるじゃん」だった。それは今もかわらん。ただ、拍手喝采で終わらんぜって、そういう感じもした。今後の彼らのこともあるだろうしさ、あるいは日社会と、エホバの証人との間のことは、これでまあいいかってことにはならねえって。 まあ、もちろん、「間のこと」を完全にどうにかする、

    魂の落としどころがどっかにあるはずなんだ、たぶん - 関内関外日記
  • 輸血拒否〜エホバの証人の聖書 - blupyの日記

    輸血拒否に関することを見てて気になったことがあった。 エホバの証人と輸血の話 - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake 血は一切入れてはならない、というのが教義だ、ということになっている。いまは。その話は後で触れるとして、彼らがそう信じる理由は聖書にあると彼らは主張している。 主な根拠として援用されるのは旧約では創世記9:4、「しかし肉をその生命であるその血のままにべてはいけない」、同様の規定はレビ記17:10-14にあり、これはユダヤ人の律法なのだが、ここでは血をべたものは死刑になる(「民のうちから断たれる」)といわれる。 と元信者の方が書いている。 エホバの証人の輸血拒否 - 古屋の覚え書き 実は個人的にエホバの証人が好きだ。今まで会ったエホバの人々は皆いい人だったからだ。それも、すこぶる付きの。聖書も実によく研鑚している。 とある。このエホバの証人が聖書を根拠に出す、というの

    輸血拒否〜エホバの証人の聖書 - blupyの日記
  • エホバの証人の輸血拒否 - 古本屋の覚え書き

    昨日、リンクした「NATROMの日記」に関連記事があったので紹介しよう(時系列順)。 エホバの証人の二枚舌 未成年への輸血はどうすべき?〜エホバの証人 輸血拒否した両親・親権停止が男児の命を救った Wikipediaによれば、この他にも兵役拒否、国旗敬礼・国歌斉唱を忌避、他宗の儀式へは参加しない、といった特徴的な行為が挙げられている。確か選挙の投票もしないはずだ。性行為もかなり規制されている。たとえ夫婦であったとしてもだ。 実は個人的にエホバの証人が好きだ。今まで会ったエホバの人々は皆いい人だったからだ。それも、すこぶる付きの。聖書も実によく研鑚している。 世界の諸問題の基底に共通しているのは欧米列強による帝国主義的思想であり、それを支えているのはキリスト教である――というのが私の持論である。それでもエホバの人々には好感を抱いている。 しかし、輸血拒否となるとまた別の話だ。近頃、ろくでもな

    エホバの証人の輸血拒否 - 古本屋の覚え書き
  • 「エホバの証人」を巡ってちょっとランダムに - Living, Loving, Thinking, Again

    「八幡宮」をsectと呼ぶのはどうよということを書いたのだが*1、「エホバ*2の証人」をセクトと呼ぶのは通例といえるだろう。 「エホバの証人と輸血の話」と題するエントリー*3で鰤さんが「エホバの証人」の「輸血」を巡る教義の変遷に言及している。また、「輸血」禁止の教義について、聖書解釈のレヴェルで「エホバの証人」の見解を批判している。曰く、「そもそも聖書筆者には輸血などという概念はなかったのだから、むしろ聖書は輸血に関して何もいっていないという解釈の方が素直なのではないだろうか?」。 ところで、鰤さんは「エホバの証人の教義がやたらめったら変更されることは、エホウォッチャーの間では有名な話で、一般的にも知られているのはハルマゲドン予想の変更だろう」。ただ、世俗社会の動向に合わせて教義が変更されるというのは、特に新宗教ではそう珍しくない話だろうとは思う。身近なところでは、1960年代以降の創価学

    「エホバの証人」を巡ってちょっとランダムに - Living, Loving, Thinking, Again
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