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ブックマーク / borges.blog118.fc2.com (3)

  • 鈴村智久の研究室 キリスト教神学は、何故「輪廻」の教えを異端として排斥するのか?

    by Gerhard Richter 一 「アウグスティヌスの矢」 キリスト教神学では輪廻転生を異端として排斥する、ということに対して僕は疑問を抱く。当にキリスト教は輪廻をその教義に持っていないのだろうか。 これから僕は、ローマ・カトリック教が、何故「輪廻転生」と相容れないのかということを考察し、なおかつ「輪廻」の持つキリスト教的な意味を探る。 まず、時間論のモデルを考えよう。キリスト教的な時間論とは、一言でいえば矢である。これはアウグスティヌスが『告白』の名高い11巻で語った基的なことだが、時間は絶対的に過去へ遡行しない。必ず矢のように現在が現在を絶え間なく更新し続ける。メルロ=ポンティが『知覚の現象学』の時間論で、「時間には、過去も未来もなく、あるのは現在のみである」という類のことを記していたが、これは過去が現在の想起であり、未来が現在の予持としてしか知覚し得ないということに他なら

  • 鈴村智久の研究室 現代思想としてのトマス・アクィナス『神学大全』の可能性

    サンドロ・ボッティチェリ《マグニフィカート》(1480-81) このページではトマス・アクィナスの『神学大全』を読み返すことで、キリスト教神学の基礎を復習してみよう。トマスは自らの神学に対する位置付けを、doctor catholicae veritatis(カトリック真理の教師)と表現している。『神学大全』とは、理論である前にまずsacra doctrina(聖なる教え)であり、humana salus(人間の救い)である。 【神学とは何か?】 そもそも、「神学(theologia)」とは何であろうか? トマスはそれを、scientia divinitus inspirata(神感に基く学)だと考えていた。聖書を真に深く理解するためには、聖なる教えとしての「神学」が必要である。聖書の中においては、我々はそれを読むことで神の教えを認識することができるわけだが、それは学としての聖なる教えでは

  • 鈴村智久の研究室 一神教とシステム理論の結合地平

    「The Tomb of Solomon」 by  NOMEacute;, Franccedil;ois de カトリック教会というのは、カトリックという教義、階層性、信徒と非信徒のコミュニケーションそれら全てを内包した宗教システムである。 我々はこれから、この我々の精神的、信仰的基盤である「カトリックである」という存在論的規定を、我々なりにディコンストラクトする。 その上で重要なのは、徹底的にニクラス・ルーマンである。 ルーマンの『マスメディアのリアリティ』を読んでいるうちに、私の中である考えが形成され始めた。 それは、宗教システムそれ自体が、つまりイスラム教や仏教やヒンドゥー教といったキリスト教以外のほかの宗教システム全てが、実は「メディア・システム」のコードであるという着想である。 ルーマンは『社会システム理論』の中で、自身のシステム理論が生体内部のネットワークを前提にしていることを

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