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空襲と政治に関するpopoiのブックマーク (4)

  • 鳥越俊太郎氏は本当に空襲体験をしたのか?

    鳥越氏の出身地の旧吉井町は空襲に遭っていないらしい 福岡県吉井町(現うきは市)は疎開地の山間地であって空襲には遭っていないという指摘がされる。 Bell Boyd @Bell_Boyd 鳥越俊太郎: 「・・・これはあえて付け加えさせていただいております。私は昭和15年の生まれです。終戦の時20歳でした。もちろん空襲も覚えてます。防空壕に逃げ込んだこともよく記憶しております。」 福岡県浮羽郡吉井町(現:うきは市)に空襲はあったのか? 2016-07-19 02:59:09 坂 眞 @makotoban 鳥越俊太郎「私は昭和15年の生まれです。終戦のとき20歳でした。もちろん空襲も覚えています。防空壕に逃げ込んだこともよく記憶しております」実際は終戦時は5歳、しかも彼の生まれた福岡県浮羽郡吉井町は爆撃されていない。画像は吉井町の町並 pic.twitter.com/J5HzrBK3af 201

    鳥越俊太郎氏は本当に空襲体験をしたのか?
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    popoi 2016/07/24
    参考https://t.co/jVTSYYm5hK 《検証 #防空法 ・ #空襲 下で禁じられた避難 (水島朝穂・大前治 著)》 より安全な田舎への疎開、不可能だったかもね。「鳥越俊太郎氏は本当に空襲体験をしたのか?」
  • 「空襲は怖くない。逃げずに火を消せ」――戦時中の「防空法」と情報統制/大前治 - SYNODOS

    空襲の安全神話 1枚の写真をご覧いただきたい。 畳の上に炎があり、男女3人が水をまいている。昭和13年に東部軍司令部の監修で作られた12枚組ポスターの一つで、今でいう政府広報である。表題には「落下した焼夷弾の処理」とある。 それにしても不思議な光景である。屋根を突き破って落ちてきた割には弱々しい炎。天井や畳は燃えていない。焼夷弾の間近に迫って怖くないのか。アメリカ軍の焼夷弾はその程度のものなのか。一杯目のバケツで水をかけた後は、一体どうするのか。この一つの炎のために次々とバケツリレーをするのか。謎が深まる。 もう1枚。同じ12枚組の1つである。 ショベルの先に小さな「焼夷弾」らしき物体があり、「折よくば戸外に投出せ」と書かれている。こちらも、畳や障子はまったく無傷である。 こんな対処法が可能とは思えない。実戦で使用された焼夷弾は、発火装置と燃焼剤が一体となっており、投下されると数十メートル

    「空襲は怖くない。逃げずに火を消せ」――戦時中の「防空法」と情報統制/大前治 - SYNODOS
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    popoi 2015/03/10
    政府の非道、尚且つ司法は被害の訴えを受忍論で退ける無道。《退去を認めると、都市部で軍需生産にあたる労働人口が流出/敗北的観念や反戦感情も醸成されかねない/「空襲は怖くないから逃げる必要はない」と宣伝》
  • 空襲被害者の救済を/“差別なき補償へ、党派超え力尽くす” 小池氏あいさつ/集会開く

    さきの大戦で国内の空襲で被害を受けた民間の人たちに国の責任で救済を行うことを求めている全国空襲被害者連絡協議会は5日、国会内で集会を開き、空襲被害者ら100人余が参加しました。 これまで、旧軍人・軍属にたいしては総額約50兆円の国家補償、援護が行われたにもかかわらず、民間の空襲被害者には補償はなく、取り残された戦後処理の課題となっています。集会はその援護制度の確立を求めたもので、同協議会の星野弘運営委員長は「戦後70年となる2015年までになんとしても成果をあげたい」と訴えました。 大阪空襲訴訟弁護団の大前治弁護士が「戦時下の防空法と国民」と題して講演。「空襲は怖くない、逃げずに消火せよ」と非科学的な指示をした当時の防空法制のため多くの被害が広がった事実を告発しました。 名古屋空襲を体験した杉山千佐子さん(98)ら空襲被害者が訴えました。 日共産党の小池晃副委員長・参院議員、笠井亮衆院議

    空襲被害者の救済を/“差別なき補償へ、党派超え力尽くす” 小池氏あいさつ/集会開く
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    popoi 2014/03/11
    《旧軍人・軍属に対しては総額約50兆円の国家補償、援護が行われたにもかかわらず、民間の空襲被害者には補償はなく、取残された戦後処理の課題と》被曝者との #差別 にも要留意。
  • 防空法制下の庶民生活1

    1942(昭和一七)年4月18日12時30分、アメリカのドゥーリトル爆撃隊(B25爆撃機一六機よりなる)が日土に第一弾を投下した。この日、伊藤整は、日記にこう記した。「初めての当の空襲であるが、晴れて明るい日のこととて、のん気である。あの飛行機が敵機というのだそうだが、ふだんの日の飛行機を見るのと変らない気持。今まで受け身でばかりいたアメリカ人も初めて少しは仕事らしいことをしたと、ほめてやりたい位の気持ちである。昼間の東京に入って来るなど、なかなかやるわい、といかにも冒険好きなアメリカ青年の顔が目に浮かぶやうだ」(伊藤整『太平洋戦争日記』新潮社、1983年105頁)。 この直後にやってくる日の運命を考えると、そこからは、庶民が、のんびりしたムードで初空襲を迎えたことが読みとれる。伊藤の筆致には余裕すら感じられる。この「余裕」は、いったいどこから生まれたものなのだろうか。 この連載

    popoi
    popoi 2014/03/01
    #ごちそうさん 《自国で毒ガスを製造・使用しながら、国内に向けては脅威を叫んで/初空襲の十年以上前から市民生活の細部にわたってテンションを高める宣伝が繰返し行われ「民間防空体制」が整えられつつ》#政治
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