オタク論、つまりオタクについての話を見ていて私が感じたこと、思ったこと、考えたことを一回文章としてまとめてみたいとかねがね思っていたのをまとめてみました。以下は私なりのオタク論であり、私なりの「オタク論」論です。 追記 朝起きて読み返したらあまりに恥ずかしくなって消したいんだけど消すに消せないので隠す。何でこんなもん書いたんだろう・・・・・・。 オタクとはスタイルである。要するに生き方である。 だから、アニメが趣味な人もマンガが好きな人もゲームが好きな人もオタクではない。そういう人は、あくまで趣味として、そういったオタク系のメディアを楽しんでいるだけだ。オタクの場合、オタクという生き方の一つの要素としてアニメやマンガやゲームが好きなのであって、趣味として楽しんでいるわけではない。 ではオタクという生き方とはなにか。それは、社会的な疎外者や異端者が選び取らざるを得なかった生き方の一形態である
昨日に引き続いて、『機動戦士Zガンダム』について少し。 僕は以前から思っているのだが、セカイ系の起源のひとつとして富野由悠季を想定することができるように思う。特に典型的であるのが強化人間についての設定で、そこで記憶の問題が扱われていることが興味深い点である。 フォウ・ムラサメも、ロザミア・バダムも、記憶を奪われた人間として登場する。記憶がアイデンティティの問題と関わることは、以前にも何度か書いたことであるが、フォウのように、自分の失われた記憶を探し求めるという設定は、注目に値する。 ここでの注目点は、自分の記憶を奪われているという記憶がある、というところだろう。これは、偽の記憶を自分の真の記憶と取り違えているという模造記憶の問題とは、まったく別の射程を持った問題である。つまり、そこで探し求められているのは、まさに「本当の自分」とでもいうべき真のアイデンティティであり、こうした真のアイデンテ
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