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ブックマーク / ashizu.hatenablog.com (41)

  • 歌うことと闘うこと――『マクロスF』に見出される女性的な立場と男性的な立場 - metamorphosis

    現在『マクロスF』の劇場版が公開されているわけだが、僕も今度この作品を見に行く予定なので、その予習を兼ねる形で、この作品についてちょっと書いてみたい。いったいこの作品でどのようなことが問題になっていたのかということを自分なりの視点で少しまとめてみたいと思ったのだ。 『マクロスF』を物語的な観点から見ていったときに注目されるべきなのは、メインとなる三人の登場人物、つまり、アルト、シェリル、ランカという三人の登場人物の関係性である。これら三人の登場人物の関係を恋愛における三角関係として提示するのがオーソドックスな見方であるだろうが、そのようなありきたりの見方を踏襲しても面白くないので、ここでは、あえて別の観点を提出してみたいと思っている。それは、すなわち、これら三人の登場人物を男性と女性とで分けて、男性と女性を対立させるという観点、つまり、アルトをシェリルやランカと対立させるという観点である。

    歌うことと闘うこと――『マクロスF』に見出される女性的な立場と男性的な立場 - metamorphosis
    prisoner022
    prisoner022 2009/12/01
    『マクロス』というゲームのうちにあっては、戦闘機乗りはどうしても歌姫に負けざるをえない。つまり、アルトは、彼が最初に直面したシェリルの壁をどうしても突き抜けることができないのである。
  • デジタル技術時代のテレビアニメ――リミテッド・アニメーションの現在 - metamorphosis

    現在の日を脱工業化社会というふうに言うことはできるだろうが、こうした社会の変化とアニメーションを見ることとの相関関係はどうなっているのか、ということが最近気になっている。 テレビの登場というものが非常に大きいだろうが、テレビでアニメを見ることと劇場で映画のサブジャンルとしてアニメを見ることとは、質的に異なる体験ではないだろうか。 映画と工業というものが密接に関係しているとすれば、テレビというものは新しい産業、とりわけ情報産業と密接な関係があるだろうし、そうしたテレビが主流なメディアであった時代も、ネットの出現によって、終わろうとしているように思える。 情報産業の次の産業が何と呼ばれるのかよく分からないが、少なくとも、テレビの衰退と共に、テレビアニメのあり方も大きく変わってくることだろう。現在はまだ過渡期だと思われるので、ネットを舞台にしたアニメというものが主流になるのか、仮に主流になっ

    デジタル技術時代のテレビアニメ――リミテッド・アニメーションの現在 - metamorphosis
    prisoner022
    prisoner022 2009/05/18
    これまで/自然との繋がりを断念/断念をあえて積極的に肯定/そのような屈折//今日/屈折を見出すことはできない/テレビアニメは、データを洗練させる場所/良いアニメ/十分に洗練されたデータを提供するアニメ
  • 『エヴァの喰べ方、味わい方』(その3) - metamorphosis

    エヴァでは全編にわたり宗教・心理学・生物学・物理学からの用語がちりばめられている。真面目に語句を深読みすればするほど、次々といろいろなメッセージを読みとってしまい、解釈が多様に生まれ、カレードスコープのような謎の深みにハマっていってしまう。 (中略) なかでも物語の背後に死海文書があるにちがいないとうかがわせるシーンは謎に包まれている。特務機関ネルフの隠された上部組織であるゼーレは死海文書に従ってエヴァを造り、使徒との闘いを進めているらしい。 (有栖脱兎「エヴァ・カルチャーは「終わりの始まり」ではなく「終わりの終わり」である」、30頁) しかしながら、謎を解明したくなる欲望というものを問題にすべきだろう。謎があれば誰でもそれを解き明かしたくなるわけではなく、そもそも何かが謎として立ち上がるための条件というものが問題にされなければならない。 『エヴァ』は、その作品世界を越えて、現実世界を解読

    『エヴァの喰べ方、味わい方』(その3) - metamorphosis
  • 新しい価値基準を創出するために――『コードギアス』についてのちょっとしたメモ - metamorphosis

    『コードギアス』には、現代の日社会(あるいは日人)に対するちょっとした批判のようなものが見出せる。それは、言うなれば、政治に対する無関心さへの批判のようなものである。ブリタニア帝国によって占領され、「エリア11」と呼ばれる日の姿というものは、第二次大戦後にアメリカに占領された日の姿のことを、さらには、現在においてもアメリカの軍事基地が存在し、アメリカの要請に従って自衛隊海外に派遣しなければならないといった、日の「対米従属」の姿を想起させる。 それでは、この作品は、イデオロギー的には、どのような立場に立とうとしているのか、というところを見極めるのはなかなか難しいところである。そもそも、帝国主義の植民地支配に対する民族独立というテーマはすぐれて20世紀的な問題設定だと言えるだろうし、そこに21世紀的な問題設定であるテロリズムが接合されているのには、若干の違和感を覚える。21世紀にお

    新しい価値基準を創出するために――『コードギアス』についてのちょっとしたメモ - metamorphosis
  • 『エヴァの喰べ方、味わい方』(その1) - metamorphosis

    エヴァはTV放送が開始された時点で、すでに制作の遅れは危機的な状況を呈していた。(中略)したがって、問題の最終二話は、単純に監督の強い自己表現だけでは説明できない、外在的な条件も大きかったと見るべきであろう。 (いがらしもも「庵野の開かれた態度について」、エヴァンゲリオン六木委員会編『エヴァの喰べ方、味わい方』、第三書館、1997年、7頁) しかしながら、それでもやはり、内在的な条件について常に考えるべきだろう。外在的な条件について考えることは、結局のところ、作品それ自体を見ないということに通じる。外在的な条件を探し求めることのうちにはどこか、問いを大きくずらしてしまおうとすること、何かをあまりにも性急に理解してしまおうとすること、そのような欲望を見出すことができないだろうか。 『エヴァンゲリオン』の謎というものそれ自体が、今日の時点から振り返って見ると、ひとつの謎である。あの作品が様々

    『エヴァの喰べ方、味わい方』(その1) - metamorphosis
    prisoner022
    prisoner022 2009/05/01
    『エヴァンゲリオン』以後の時代、つまり、現在という時代について考えるためには、『エヴァ』という作品にどのような夢が託されようとしていたのかという、そのような過去の記憶を喚起する必要がある。
  • 神なき時代の正義と悪――『機動戦士ガンダム00』の物語に関して - metamorphosis

    大した感慨もなく最終回を見ていたのだが、アニメ『機動戦士ガンダム00』について、これまで考えてきたことをざっと書いておきたい。 まず、この作品のアクチュアリティ(現代性)という点について。この作品は、「ガンダム」という古い物語をいかにして現代という時代に組み込むかということにかなり奮闘した作品だ、ということはひとまず言えるように思う。「ガンダム」というのはどのような作品なのかということを問うた結果が、このような形になったわけで、人類の革新なり何なりというところは、確かに、『ファーストガンダム』のニュータイプ思想というものを想起させて、今回の「ガンダム」も(『ガンダムSEED』などと同じく)、ある種の原点の反復をなそうとしているところがある、というのはよく分かった。 しかしながら、大きな問題なのは、そのような「ガンダム」の核心とでも言うべきものと、現代の国際的な政治状況を始めとした現代的な問

    神なき時代の正義と悪――『機動戦士ガンダム00』の物語に関して - metamorphosis
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    prisoner022 2009/04/19
    神のような超越者の存在がなくても、自分たちだけで良き未来のために尽力することができる、そのような希望を提示した/だが/どうしようもない人間たちのために、あえて悪の立場に就くという最初の設定が何の意味も
  • アニメ『キャシャーン Sins』の現代性――『スカイ・クロラ』とも絡めて - metamorphosis

    アニメ『キャシャーン Sins』を最後まで見たので、感想を書いてみたい。 アニメのリメイク作品というものは無数にあるが、それらは概ね、失敗する傾向にあるように思う(もちろん、いくつかの例外はあるが)。というのは、そうしたリメイク作品の多くは、アニメ作品をそれ単体で、幾分か現代的な装いの下に、作り直しているにすぎないものがほとんどだからである。 作品というものは、それ単独で自律しているわけでは決してなく、その作品が成立するための文脈というものを必要とする。昔人気があった作品が、現在において必ずしも同様の人気を獲得できないのは、その作品が古くなったというよりも、文脈が変わったからである(むしろ、こうした文脈の変化が「古い」とか「新しい」という言葉で問題になっていることだろう)。従って、文脈を無視して、単に過去の物語を繰り返しているだけのリメイク作品が面白くないのは当然のことである。 では、今回

    アニメ『キャシャーン Sins』の現代性――『スカイ・クロラ』とも絡めて - metamorphosis
  • アニメ『鉄のラインバレル』は今日のリアリティにどのように立ち向かったのか? - metamorphosis

    新作アニメ『鉄のラインバレル』の第1話を見て思ったこと http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20081010#1223611140 アニメ『鉄のラインバレル』が放送され始めた当初、いろいろな期待を込めて、上記のような記事を書いたわけだが(この記事ではコミュニケーションという観点から『ラインバレル』を問題にした)、それから5ヶ月ほどが経って、現在自分がこの作品に対してどのような評価を下しているのかということをこれから書いてみたい。 まず、大きな誤算だったのが、第1話だけしか見ていなかった当時の僕が、この作品を完全にシリアスな作品だと決めつけていたことである。言い換えれば、この『鉄のラインバレル』という作品を正しく評価するためには、この作品のギャグアニメ的な側面というものをしっかりと把握しておく必要がある、ということである。 第1話だけを見ても、この作品が一種のギャグアニ

    アニメ『鉄のラインバレル』は今日のリアリティにどのように立ち向かったのか? - metamorphosis
    prisoner022
    prisoner022 2009/04/19
    今日の作品には、ある種のリアリティが過度に要求され/必然的に作品世界の規模も狭く/小さいものになってしまう/巨大ロボットアニメ/より大きな世界でより大きな物語を展開しようという傾向/リアリティの要求と衝突
  • サブカルチャーと政治的なもの(その1)――すでに常に部分的なものであるというアイロニー - metamorphosis

    今、大塚英志の『サブカルチャー文学論』を読んでいるのだが、江藤淳のサブカルチャー観を問題にする次のような記述に、僕はかなりガツンとやられた。 ところで江藤がここで「サブカルチュア」をいわゆるアニメやコミックといった具体的な領域を指して言うのではなく「全体文化」から乖離した「部分的な文化現象」の意味で用いていることに注意したい。このような文脈でサブカルチャーを語る時、江藤の中ではやはり「全体文化」の存在が所与のものになっていることをここで確かめておきたい。「サブ」すなわち「部分」なる語は否応なく「全体」の所在を証明してしまうことになるからだ。 しかし、そもそも「全体文化」とは何なのか。例えばここで江藤が「全体文化」ではなく「上位文化」と記していれば理解し易い。その場合はただ文化的なヒエラルキーの中で上位にくる高級な文化を思い起こせばいいのであって、例えばいわゆる「文学」を多くの人はその中に加

    サブカルチャーと政治的なもの(その1)――すでに常に部分的なものであるというアイロニー - metamorphosis
  • 来るべきアニメ批評について——津堅信之さんの記事を読んで | 2009-02-05 - metamorphosis

    アニメージュ オリジナル(津堅信之のアニメーション研究資料図書室) http://d.hatena.ne.jp/tsugata/20081113/1226578800 今更であるが、こちらの記事を取り上げて、ここで語られていることについて少しばかり問題にしてみたい。 昨年は、アニメ批評のことがそれなりに話題になった年だったと言える(東浩紀、山寛、黒瀬陽平といった人たちが話題になった)。僕もアニメ批評には興味があるので、昨年は、雑誌やネットに載った記事をいくつかチェックして、アニメ批評について、広くはアニメにまつわる言説について、少しばかり考えていた。 アニメ批評についてどう考えるのかということはかなり厄介な問題なので、そのことは順々に述べるとして、まずは、上記の記事で津堅信之さんが表明している違和感を問題にしてみることにしたい。 津堅さんは雑誌「アニメージュ オリジナル」について、次のよ

    来るべきアニメ批評について——津堅信之さんの記事を読んで | 2009-02-05 - metamorphosis
    prisoner022
    prisoner022 2009/04/19
    なぜアニメについて語らなければならないのかという必然性(「アニメを語ることそのものの価値観」)について考えることが、アニメ批評を始めるための第一歩だと言えそうである。
  • 貧しい日本文化の表現としてのアニメーション

    現在、日のみならず、全世界が経済危機という名の荒波に飲み込まれているわけだが、そんな時代状況だと、今後日はいったいどんな国になっていくのだろう、というような日の行く末のことを考えないではいられない。しかしながら、このような懸念を、僕は、昨日や今日になって急に抱いたわけではなく、90年代後半からずっと抱き続けてきたと言える。経済的な繁栄が頭打ちした日に明るい未来はないのではないか、という不安をずっと抱き続けてきたのだ。 しかし、そもそもの日国というものを考えたときに、日というのは、豊かな国であるというよりも、どちらかと言えば、貧しい国と言えるのではないだろうか? こういうことを、僕は、しばらく前から、考え続けている。もちろん、日は経済的に豊かな国であったし、現在もそうだと言えるだろう。そういう点では、日はまったく貧しくはないわけだが、しかし、そのような経済的な豊かさすらも、日

    貧しい日本文化の表現としてのアニメーション
    prisoner022
    prisoner022 2009/01/31
    手塚治虫を回顧するということは、手塚治虫を現在の日本のサブカルチャーの父として称揚することではなく、日本の貧しさを一身に背負った義父としてそのうちにある矛盾や葛藤や屈折を徹底的に暴き出すこと、それだけ
  • 今日におけるヒーローの課題、あるいは、善悪の彼岸としての神的暴力について - metamorphosis

    ヒーローの役目とはいったい何であろうか? ヒーローとは力を持つ者のことであり、その力をどのように使うのかが問題となる。ヒーローには普通の人にはできないことが期待される。そのため、ヒーローはしばしば悪の存在と闘う。しかし、悪の存在とはいったい何なのか? いったいそこで問題となっている悪とはどのような種類の悪なのか? その存在が悪だからそいつは悪だと言っただけでは同語反復である。ヒーローものの作品で悪と見なされているものたちのことをもう少しよく考えてみる必要がある。 例えば、『ウルトラマン』に出てくる怪獣たちは、悪の存在なのだろうか? 『ウルトラマン』に登場する怪獣たちは、知性を持った宇宙人を別にすると、どこか動物的なところがある。怪獣たちがビルや家などを破壊したとしても、それは、怪獣たちが人間に悪意を持っているからでは必ずしもないだろう(元々は人間であり、政治的な戦略のせいで遠い惑星に置き去

    今日におけるヒーローの課題、あるいは、善悪の彼岸としての神的暴力について - metamorphosis
  • 近年のアニメ作品における同居と調和のテーマについて――家族的関係がはらむ暴力に関して - metamorphosis

    極めて今日的なテーマとして暴力というものがあるだろう。いったいなぜ暴力が問題になるかと言えば、暴力を問題にする観点はいくつもあるだろうが、まずひとつ言えることは、われわれが他者と関わるときに、その他者が極めて暴力的な存在として浮かび上がってくるということがある。その他者自身には、周囲の人間を不快にさせようという悪意を持っていなくても、周囲の人間にとっては、その他者の行なうことが、さらには、その他者の存在自体が、不愉快な侵犯として感じられるということがありうる。結果、この他者を排除しようとするときに暴力が生じることになるだろうが、そこで暴力を行使する者は、往々にして、自分を被害者の場所に位置づけていることだろう。つまり、自分は先に他者から暴力を受けており、そうした暴力に対する正当防衛として暴力を行使するのである、と。 今日のサブカルチャー作品で同居をテーマとして描いた作品はいくつもあるが、そ

    近年のアニメ作品における同居と調和のテーマについて――家族的関係がはらむ暴力に関して - metamorphosis
    prisoner022
    prisoner022 2008/09/02
    他者が近くにいることそれ自体が不愉快さの原因なのではなく、他者と一緒にいなければならない圧力が不愉快なのだ/現在の社会問題とは社会的な様々な問題の解決がそうした家族関係の力に過度に期待されているところ
  • 『人魚姫』の持つ今日のリアリティ――『崖の上のポニョ』と『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』について - metamorphosis

    最近、偶然にも、アンデルセンの『人魚姫』を現代風にアレンジした二つの作品を見たり読んだりした。ひとつは、宮崎駿の最新作『崖の上のポニョ』であり、もうひとつは、桜庭一樹の小説『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』をマンガ化した作品である(漫画:杉基イラク)。言ってみれば、これらの作品の作者は、『人魚姫』という古典的な作品から現代的なリアリティを読み取ったわけだが、いったい、この『人魚姫』という作品のどこに現代的なリアリティがあるのだろうか? アンデルセンの『人魚姫』のストーリーに忠実なのは『砂糖菓子の弾丸』のほうである。この作品では、最後、海野藻屑という名の少女が、その名の通り、海の泡になってしまう。これに対して、『ポニョ』のほうでは、ポニョが泡になることはない(つまり原作の物語の展開とは異なる)。この差異はいったい何を意味しているのだろうか? 『ポニョ』において、ポニョが海の泡になることはないが

    『人魚姫』の持つ今日のリアリティ――『崖の上のポニョ』と『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』について - metamorphosis
    prisoner022
    prisoner022 2008/08/01
    ポニョと宗介の関係は、一見すると、非常に素朴/しかし、『人魚姫』の物語を横に置いて考えてみると/極めてリスクを負った関係/永遠の魂を獲得できるか、それとも海の泡になってしまうかという、全存在を賭けた選択
  • セカイ系の社会的な次元、あるいは、セカイ系のリアリティについて - metamorphosis

    セカイ系作品はこれまで多くの批判にさらされてきたと言えるが、セカイ系を批判するときにしばしば持ち出される言葉がある。それは「閉鎖的」というものである。「セカイ系」という言葉の定義の一部をなしている、社会的な領域の欠如という特徴が含んでいるニュアンスもそうした閉鎖性であるだろうし、「きみとぼく」というカップルの関係についても、そうした閉鎖性が指摘されることだろう。 宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』では、セカイ系が批判の対象になっているわけだが、そこでのポイントというのも、閉鎖性、閉じこもり、引きこもりである。宇野常寛のエッセイにおけるセカイ系のイメージは、『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジに集中している。碇シンジは、劇場版(「Air/まごころを、君に」)での彼の行動が顕著であるように、世界が危機的な状況にあるにも関わらず、何か積極的な行動をすることもなく、引きこもる。 このような指摘に対して

    セカイ系の社会的な次元、あるいは、セカイ系のリアリティについて - metamorphosis
  • 『天元突破グレンラガン』から『機動戦士ガンダム00』へ、あるいは、セカイ系を避けるための二つの方法 - metamorphosis

    『天元突破グレンラガン』とは、いったい、どのようなアニメ作品だったと言えるだろうか? 『グレンラガン』には、旧来のアニメ作品の反復という側面がある。もっと限定して言えば、それは、70年代から00年代にかけての(ロボット)アニメの反復である。しかしながら、過去のガイナックス作品のことを考えるのであれば、『グレンラガン』は、80年代にガイナックスが作った作品の反復である、とも言えるだろう(そもそも、ガイナックスの出発点は、過去のアニメや特撮をパロディにした作品を作っていたアマチュア集団である)。80年代にガイナックスの作った作品が、旧来のアニメや特撮の反復であるとしたら、『グレンラガン』は、まさに、そうしたガイナックスの行為の反復、「反復」の反復であると言えるだろう。 具体的に作品名を上げれば、『グレンラガン』は『トップをねらえ!』の反復であるように思えた(特に物語構造上)。他にも、『王立宇宙

    『天元突破グレンラガン』から『機動戦士ガンダム00』へ、あるいは、セカイ系を避けるための二つの方法 - metamorphosis
  • metamorphosis 『ぼくらの』と倫理的問題(その1)――アニメ版とマンガ版の違いはどこにあるのか?

    『ぼくらの』という作品がなぜ倫理的なのかということを説明するためには、まず、鬼頭莫宏によるマンガ版の『ぼくらの』と現在放送中のアニメ版の『ぼくらの』との差異を明確にすべきだろう。 アニメの『ぼくらの』は、ネットで一時期話題になったように、監督自身が原作のマンガとは別の方向性を打ち出すことを明確に表明していて、かつ、原作のマンガがまだ終わっていない以上、どこかで独自の結末をつけざるをえない状態になっている。アニメは、現在放送中なので、最終的にどのような結末を描き出すのか(どのような結論を提出するのか)はまだ分からないわけだが、現在までのところで、この作品が原作のマンガとどのような点で異なっているのかということについては、かなり明確に、描き出すことができるように思える。 もちろん、アニメとマンガとの相違点は非常にたくさんある。しかし、根的な違いはどこにあるのかと考えてみれば、それは、まさに、

    metamorphosis 『ぼくらの』と倫理的問題(その1)――アニメ版とマンガ版の違いはどこにあるのか?
    prisoner022
    prisoner022 2007/08/27
     「TVで放送できることとできないこTVで放送されるに適した作品があり、そうではない作品がある。では、TVで放送されるに適した物語、誰にでも推奨できるようなイデオロギーとはどのようなものなのか
  • 代替不可能なものの仮面を被る代替可能なもの - metamorphosis

    最近のアニメ作品やその他のサブカルチャー作品を見ていて疑問に思うことがある。それは、ある種の共同体主義的な価値観が過度に肯定されている点である。ある種の共同体主義的な価値観とは、古き良き日の価値観とされているもの、ある地域の住民同士による助け合いの精神のことである(最近のアニメ作品では、例えば、『大江戸ロケット』の名前を上げることができるだろう)。 競争的関係と家族的関係 http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20070111#1168532200 この点に関して、僕は、以前、上記のエントリで、競争的な人間関係に対立する家族的な人間関係として、そのような価値観を位置づけた。そして、それから、競争的関係の行き詰まりを打開する道を探るために、家族的関係を描いている作品をいくつか検討していったわけだが、こうした作品から、十分にその可能性を汲み出すことはできなかった。 そこで

    代替不可能なものの仮面を被る代替可能なもの - metamorphosis
  • 新海誠における再会と喪失の問題――『秒速5センチメートル』を見て - metamorphosis

    先日、新海誠の新作『秒速5センチメートル』を見てきたので、その感想を少し書いてみたい。 この作品の主題をひと言で言えば、それは、再会だと言えるだろう。しかしながら、ここで問題になっているのは、永遠の魂の存在証明とは別のもの、むしろ、その永遠の魂に加えられた傷であると言えるだろう。このことを、これから、詳しく述べてみたい。 そもそも、再会の主題とはどのようなものか? それは、セカイ系的な文脈で言えば、永遠の魂の実在の証明であると言っていい。例えば、それは、次のような物語の形で示される。ある愛し合っている男女が悲劇的な出来事によって離れ離れになって死ぬ。その魂は別の肉体に宿ることになるが、その新しい生においても、この男女は、再びお互いを愛し合うようになり、再びこの二人は出会うようになる、というものである(新海誠の作品には村上春樹の強い影響を見ることができるが、ここで、『秒速5センチメートル』と

    新海誠における再会と喪失の問題――『秒速5センチメートル』を見て - metamorphosis
    prisoner022
    prisoner022 2007/03/25
    再会できるかどうかということがもはや問題なのではなく、永遠の時、あるいは、永遠の場所とでも言うべきものが存在する/永遠化されているのは、むしろ、喪失そのもののほうだ
  • metamorphosis:日常と非日常とを分ける節目の時――『うる星やつら』と『涼宮ハルヒの憂鬱』を巡って

    前回は、アニメを見ることに関わる実存的な問題を少しだけ提起した。そこで問題になっていることは、生活のリズムを刻むこと、平板な世界にいかに起伏をもたらすか、ということである。これは、つまるところ、世界をいかに意味づけるか、ということである。あるいは、日常生活というものをいかにして再構成するか、ということである。 この日常生活の分節化の問題が、今日の非常に多くのサブカルチャー作品に見出されるということが、現在の僕の関心事である。何度も繰り返すことになるが、日常生活そのものを描くことはできないので、こうした作品において問題になっていることは、言ってみれば、日常生活における節目を発見することであるだろう。つまり、何かの終わりであると同時に何かの始まりでもあるような、そうした節目を様々なところに発見することが問題になっているのである。 現在は卒業式のシーズンであるが、卒業式というのもまた、ひとつの節

    metamorphosis:日常と非日常とを分ける節目の時――『うる星やつら』と『涼宮ハルヒの憂鬱』を巡って
    prisoner022
    prisoner022 2007/03/19
    単に、退屈な日常生活をいかに面白いものにするか、いかにして日常生活に非日常的なものをもたらすのか、ということではなく、日常と非日常との区別をいかにして明確化するか